行動。

文化勲章受章者である解剖学の大家・勝沼精蔵博士は、
「われわれ人間には、まだまだ三分の二の潜在能力がある。それを
掘り起こした者が天才であり、眠らせて終わるのが凡人だ。」
と説きました。

それを聞いたある人が、
「では、潜在能力を掘り起こすにはどうしたらいいのでしょうか?」
と質問したとき、次の言葉が発せられました。

「行動だよ。 
 
何もしないで、ある日突然潜在能力はあらわれはしない」

机上の瞑想では、己の眠っている才能は目覚めはしません。
行動が伴って初めて潜在能力は触発されます。
常に新しい行動を起こすコトが、眠っている三分の二の能力を掘り起
こす鍵となるのです。

脳にしても、肉体にしても、まだまだ発揮できる能力はあると言われて
います。
それを発揮できた人が優れた人であり、選手であり、学者であります。

でも、能力に秀でるだけが優れた人とも言えません。
品格を身につけ、後続を指導していく力が備わってこそ初めて本当に
優れた人となりえます。

行動を伴い、常に新しい挑戦をし続ける前向きな姿勢。
そこから道は開かれていくのでしょう。

わたしはいま、停滞前線の真っ只中。
家から出もせず、苦痛と孤独と不安の中に身を浸しています。

もっと動かないといけません。

もっと挑戦しないといけません。

底から湧き上がる前向きな感情の赴くままに、行動を起こさなきゃ。

不安や孤独は誰しも持っているもの。
特別な感情ではありません。
それに少しだけ、苦痛がミックスされているに過ぎません。

強く生きるためにも、前向きに努力するためにも、行動を起こさないと
ダメですね。
頑張っていきたいと改めて、心に刻みました。

わたしの眠っている潜在能力が何なのかは未知数です。
でも、ひとつでもふたつでも呼び起こせればいいなと思っています。

みなさんも、壁にぶつかっているときは、行動を起こしてみてください。
きっと打開できる術が見つかるかも知れません。
諦めたら何事も無に帰します。
気持ちで負けないコトが重要ですね。

行動。行動。
何もしないよりまず行動。
少しでも現状を良くしたいと願う りこ でした。

これもツイてるって思うコトで変わると思います。
ツキは呼ぶもの。来るものじゃない。
自分を見つめ直してみたいと思いました。

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ツイてる?ツイてない?

先日、『わかってちょーだい』という番組で、アンケートがありました。

「あなたの人生は ツイてる? ツイてない?」

インターネット投票もあったので、携帯から応募しました。
プレゼントもありましたが、そちらは外れたみたいです。

わたしの人生は、と考えたとき、「ツイてない」の答えでまとまりました。
確かに、ちゃんと食事はできるし、五体満足ではあるけれど、交通事故
から脳脊髄液減少症になったコトで、一気にツイてない度が上昇。
まともに出かけられないし、働くコトもできないし、人と会う約束すらロク
に出来ません。
約束したってキャンセルする場合も多く、だから人と会えなくなりました。

家でずっと籠もりきりの生活、外部との接触はインターネットだけ。
わたしが今死んでも、悲しんでくれるのは家族だけでしょう。
こんな淋しい生活、ツイているわけがない、と思いました。

アンケートでは、約4割の人がツイていると回答。
約6割の人はツイていないと答えました。

でも、ツイていると答えた内訳を見てみると、
・家族が皆健康だから
・子供が受験に合格したから
・娘にありがとうと言われたから
など、家庭内のコトがほとんどでした。

それでツイていると答えられるなら、わたしも衣食住に困っていない現状
は、ツイているというコトになるのでしょう。

逆にツイていないと答えた内訳は、
・会社が倒産したから
・仕事が認められないから
など、会社がらみのコトが多かったです。

まぁ、人生において、「ツイていない」と思った時点でツキはなくなるもの。
どんなにツイていなくても、「俺(私)はツイてる!」と思うほうが、運気は
良い方に巡るのだそうです。
だからわたしも、これからは「ツイている」と思うコトで、運気を上げて行き
たいと思いました。

どんなに些細なコトだっていいんです。
喜ばしいコトがあったり、嬉しいコトがあったりしたら、「自分はツイてる」
と思うようにしたほうが良いです。
そうしたら運気は巡り、ツイている人生になると信じる力が出ます。

人の運は、限られたものだとよく聞きます。
でも、ツイていないと思っている人から、ごく微量でも運気を吸い上げられ
たらいいし、ツイてると思うコトで生まれる何かもあるでしょう。

わたしは今回の特集で、自分のツイていないと思っていた人生だって、
まんざら捨てたものではないんだな、と思うようになりました。
そしてその日から、自分の人生はツイてる、と思うようになりました。

皆さんも、ご自身の人生はツイてる、と思うようにしてください。
そしたらきっと、良いコトがあるかと思います。

大好きなアニメを観られて、大好きなフィギュアを集められて、この人生が
ツイてないわけないんですよね。
ツイてないと思ってた自分にしっぺでもお見舞いしときます。(笑)

わたしの人生は絶好調!ツイてる りこ でした。
脳脊髄液減少症になったのは単なるアクシデント。
そう思えば、少しは人生が明るく開けていきそうな気がしています。
よぉーし、がんばれ!わたし!!

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断じて・・・。

中国の有名な歴史書のひとつ、『史記』の一節にこうあります。

「断じて敢行すれば、鬼神も之れを避く」

意味は、決断した以上は断固たる決意で臨めば、鬼神も敵ではない、とか
決断した以上は無理をしてでもやり抜けば成功する、という感じです。

人が一年間に見舞われるストレスの量は、個人差はあるでしょうが、7割
が虫に刺されたような軽度のもの、残り3割が深刻なものだと言われます。

そして、人は一年間に一回、本当のスランプに陥るようです。
その他のスランプは、もどきとでも言いましょうか、虫刺され程度のものだ
そうです。

「断じて敢行」という意識をもって臨めば、スランプもどきは霧散します。
ですが、本当のスランプは、「断じて敢行」という意識だけでは対処できま
せん。

やる気に加えて、助言や境遇なども関係してくるでしょう。
障壁突破するためには、自らを鼓舞できるような環境にいないといけませ
ん。

助言は、友人だったり先輩だったり、親だったり配偶者だったり。
時にはお医者さんだったり、同じスランプを経験した人だったりします。
骨身に沁みるような言葉をかけてもらえるコトほど、ありがたいコトはない
でしょう。

近年、精神科医は増えていても、本当のこころの病を治せるお医者さんは
少ないように思います。
患者の心に深く入りすぎてもいけないけれど、入らなさ過ぎも良くないです。

本人の気持ち次第、という人もいますが、心が弱っているときは、どうして
も気力が湧きません。
物事を司っているのは気力、精神力。
体力がいかにあろうと、気持ちが萎えてしまってはどうしようもありません。

こころの病を患う人は少なからず、病気という鬼神に負けてしまいます。
それは、「断じて敢行」できない状況に置かれているに過ぎません。
それを救えるのは、ひょっとしたら隣にいる誰かかも知れないし、明日の
自分かも知れません。

精神的に弱っている人に対して、「気持ち次第」とか「君が悪い」なんてい
うコトは絶対に言ってはいけないし、それは優しさではありません。
親身に話を聞いてあげるコト、そして、少なからず道標を示してあげるコト
が重要だと思います。

こころの病は、誰しもかかりうるものです。
自分が本当にスランプに陥って、誰かに救いを求めたとき、あしらわれて
しまったら悲しいと思います。

「義を見てせざるは勇無きなり」と言うように、こころの病の人を救うのは
非常に骨が折れるコトでも、目の前に弱っている人があれば、助けてあげ
るべきだと思います。
徳行を積む、といっては可笑しな表現かも知れませんが、助けてあげれば
自身の徳が上がる。
大事に考えてあげるコトこそ、弱者を救う道だと考えています。

わたしは、精神的に弱っている人がいたら、放ってはおけない性質です。
また逆に、自分も助けて欲しい願望を持っています。

世の中がいかに荒んでも、人としての心、救済の気持ちは持っておきたい
ものですね。
いつ、自分が弱者側の立場に立たされるか分からないのですから。

「断じて敢行すれば、鬼神も之れを避く」

鬼神は、色々な側面を持ち、色々な場面で姿を現します。
鬼神が自分のもとを避けて通ってくれるようにするには、品行方正、そして
笑顔で人と接するコトが肝要でしょう。
それでも鬼神が現れたとき、人が助けてくれると信じたいものです。

今日は、少し澱んだ空気を自分の中に感じました。
表面化してたのか、表面化していなかったのか分かりませんが、反省の材
料があります。
でも、それも精神的に不安定な毎日を耐えている結果。
今の不安定さを失くせるように、努力しないといけませんね。

わたしの中に潜む、病気と言う鬼神に負けないように、全力で戦いたいと
思いました。
明日は今日よりも笑顔で過ごせるよう、頑張らなくっちゃ。

深夜に物思う、不安定さに染上げられた りこ でした。
楽しいコトって、動かないと何もありませんね。
家で鬱々としているから、気力のチャージもままならないんだろうなぁ。。。

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日本語をもっと愛して。

読売新聞3月6日版に、国語力についての記事がありました。
以下、要点をかいつまんで書きますと、

国語力を試す検定試験が新年度から相次いで始まる。
Z会の「国語力検定」や教科書会社東京書籍の「日本語検定」だ。
背景には国語力不足への危機感がある。

きっかけは、添削指導の担当者らが、子供の言葉遣いの乱れや語彙の
乏しさ、誤字脱字の多さをしきりに指摘するようになったからだ。

たとえば、小学5、6年生に慣用句の使い方を書かせるとこんなふうだ。
「折り紙付き=おもちゃを買ったら折り紙付きだった」
「右往左往=サッカーのPK戦で、右に蹴るか左に蹴るかで右往左往」
「視野=兄はコンタクトレンズにしてから視野が広がった」

中学生でも事情は変わらない。
「成積」「こんにちわ」「こんばんわ」「夏体み」などの誤字はよく目にする。
「徹○徹○」の○を埋める問題を解かせたところ、9割が正答できなかっ
たという。

空欄を埋めて、ことわざや慣用句を完成させる問題では、
「雲○の差」・・・・正答率27%
「○○は剣よりも強し」・・・・正答率16%

Z会国語力研究所の川淵健二代表は、
「読書量の減少やコミュニケーション不足、受験偏重の学習など様々な
要因がありそうだ。今のままでは、人と会話もろくにできない大人が増え
てしまう」と訴える。

Z会の「国語力検定」は受験料3500円。
教科書会社東京書籍の「日本語検定」は受験料1500~5000円。

企業からも、「新人社員研修として使いたい」という問い合わせも来ている。
東京書籍の武元善広・検定事業部長は「日本語を捉え直す機会にしてほ
しい」としている。

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「こんにちわ」「こんばんわ」は本当によく見かけますね。
「こんにちは」の「は」は、
「今日(こんにち)は、ご機嫌いかがですか?」の「ご機嫌いかがですか?」
を略したかたち、つまり助詞です。
決して「こんにちわ」ではありません。

同時に多く見かけられるのが「確率」を「確立」とすることば。
「確立」は、制度や組織、計画などをしっかりと打ち立てること。
「確率」は、ある事象の起こる可能性のこと。
まったく意味合いが違いますが、ごちゃまぜになっているようです。

慣用句やことわざも、その成り立ちを知れば、きっと間違えずに済むもの
ですが、学校ではあまり教えてくれません。
慣用句やことわざの成り立ちを書いた本も多数出版されています。
それらを読んで、語彙力を身に付けてほしいですね。

大和の時代から脈々と受け継がれ、時にかたちを変えながら現代に至る
日本語。
もっと愛して、もっと身に付けて、使いこなしてほしいです。
最近は言葉が乱れ、美しい日本語をあまり聞かなくなりました。

テレビの影響で、標準語が蔓延し、地方でも方言を耳にしません。
それが格好いいと思っているのか分かりませんが、淋しいコトです。
日本語の良さは、標準語ではなく、方言にこそあるというのに。

また、わたしは略語も好きではありません。
わたしのブログを今まで読んでくれている方なら分かると思いますが、わ
たしは滅多に略語を使いません。
打ち込むのにたとえ面倒でも、正確な名前を書き込んでいます。
これはわたしのポリシーみたいなもので、人に押し付ける気はありません
が、貫いていくつもりです。
話し言葉では略語を使わないコトもないのですけどね。

書き言葉、話し言葉ともに、わたしは言葉遣いには気を払っています。
美しい言葉には、美しい精神が宿ると信じているからです。
世の中が荒んだ方向へ向かうのは、言葉遣いが乱れているのも原因だと
思っています。
もっと美しい言葉を浸透させるべきでしょうね。

わたしの愛する日本語が、かつての輝きを取り戻しますように。
平安の貴族たちが巧みに使いこなした、「もののあはれ」を歌う言葉が。

本を読み、言葉に執着すれば、きっと日本語は楽しく覚えられます。
最近の子供たち、そして大人たちの語彙力不足に、淋しささえ感じる りこ
でした。

堅苦しいコトは言いませんが、もっと上手に日本語を使いましょう。 ね。

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友達。

友達はいいものです。
現状、病気と闘っているわたしには、現実世界の友達は少ないです。
それでも、友情が大事だというのは重々理解しているつもりです。
今日は、『友情』にまつわる名言をご紹介します。

坂村真民 言
二度とない人生だから、まず一番身近な者たちに
できるだけのことをしよう
貧しいけれど、心豊かに接してゆこう

身近な者たちとは、肉親を除けばそれは友達。
「都会の中の孤独死」にならないように、身近な友達にはできるだけのコト
をしたいものです。
それができるかできないかによって、状況はきっと変わるはず。
貧しくてもいいじゃない。
心豊かに接していきたいですね。

シェークスピア 言
人々は、悲しみを分かち合ってくれる友達さえいれば、
悲しみは和らげられる

悲しみや苦しみ、辛さを分かち合うコトと、傷を舐めあうコトは違います。
そして、悲しみや苦しみを本当に味わった人でなければ、辛さを共有する
コトは難しいのかも知れません。
辛いとき、本当に支えてくれるのは、家族と、理解しあえる友達。
人は苦しみを一人で背負っていけるほど強くはありません。
強さとは、常に独りよがりの変形なのかも知れません。

英国の諺
友と葡萄酒は古きほど良し

竹馬の友、腐れ縁、幼馴染、色々と状況は異なり、呼び方も異なります。
でも、長く付き合った友達は、あるいは夫婦の契りを交わした相手よりも
理解してくれる存在かも知れません。
人間関係にも、芳醇、完熟、芳香、味わいがあります。
人生の滋味にも似た友情は、葡萄酒よりも心なごむものかも知れません。

シェークスピア 言
人の言葉は善意に取れ  そのほうが5倍も賢い

相手の放った言葉にカチンとくるコトは誰しもあります。
言葉の行き違いは互いにあるコトだし、それは許しあうべきもの。
そんなとき、無理にでも思い出したいこの言葉。
悪意で言っているのではないのだから、善意で受け取れば良い関係しか
残りませんね。

論語
直(なお)きを友とし、諒(まこと)を友とし、
多聞を友とするは、益なり
便辟(べんぺき)を友とし、善柔を友とし、
便佞(べんねい)を友とするは、損なり

正直な人、誠実な人、見識豊かな人を友とするのは幸いである。
こびへつらう人、外見ばかり柔和で不誠実な人、口先ばかり達者な人は
友人として不適格だ、という意味です。
逆にとらえれば、自分がどういう人間であれば、友人として迎えられるか。
そこを第一に考え、そういう人間になれる努力をするコトが肝要ですね。
馬鹿にされるぐらい正直で、誠実でもいいと思います。
それで友達に恵まれるのなら・・・ね。

後漢書
貧賤の交わり忘るるべからず
糟糠(そうこう)の妻は堂より下げず

貧しいときの友達こそ本当の友達です。
若さ以外に何もない貧しいころ、ともに安酒を酌み合って呑んだ間柄には
何の不純性もないからです。
そして、自分が苦しいときに共に過ごした妻を、自分が偉くなったからとて
粗末にしてはいけません。
糟糠(そうこう)とは、酒糟(さけかす)、糠(ぬか)のコト。
粗末な食事を一緒に食べた仲、というコトです。
いずれ自分が成功したとき、思い出したい言葉ですね。

英国の諺
順境は友を作り、逆境は友を試みる

知り合いと友達は違います。
知り合いは、こちらが調子いいときはどんどん出来ます。
そしてこちらの調子が悪くなると、サーッと引いてしまう波のよう。
友達はそんなとき、ちゃんと残ってくれる存在のコトです。
自分が波のようにはなりたくないものですね。

モンテーニュ 言
真の友愛においては、私は友を自分の方に引き寄せるよりも、
むしろ自分を友に与える

友人を繋ぎとめるのは相手から得る恩恵ではなく、自分が与えるコトにあ
るのだ、という言葉です。
生涯の友達を得ようとするならば、無償の奉仕さえ厭わない心が大事。
その関係が常に出来ているようならば、親友や永遠の友を作るコトさえも
難しくはないでしょう。

友達とは、自分の姿の顕れであり、親友とはもう一人の自分です。
たくさんの「自分」を増やして、人生を豊かに送りたいものですね。
人生において、最終的に必要なのはお金ではありません。
お金は争いや諍いを生みますが、本当の友情は死ぬまで温かいものです。
そういう関係を多く作れる人は、人間的に素晴らしい人と言えるでしょう。

わたしも、今は友達が少ない現状。
早く病気を治して、友達をたくさん作りたいと思います。
でも、今わたしの友達でいてくれる人たちは、わたしが苦しいときの友達。
きっとずっと仲良くしていける気がしています。

拙い人間であるわたしを育んでくれる友達は、大事にしていきたいです。
頼りないヒヨッコではありますが、よろしくお願い致します。

友達という関係について、改めて考えさせられた りこ でした。

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病気に侵され不安なとき。

不意に襲ってくる病気や怪我。
それらに対して、精神まで負けてしまわないようにしなければなりません。
今日は、病に立ち向かう気力を分けてもらえる名言を紹介しましょう。

門田博光 言
人生最大のピンチが、じつはチャンスだった

41歳まで現役で活躍したプロ野球選手です。
昭和54年、アキレス腱断裂。 医師から再起不能を言い渡されます。
そのとき、「菜根譚」という古典を読み始めます。
以来、怪我は「休む時間」と「考える時間」を与えてくれたと思うようになり
ました。
ピンチの際に培った内面の成長に支えられ、記録を打ち立てていきまし
た。

プルースト 言
病人というものは、健常人よりも自分の魂により近く迫るものだ

病気や怪我は、自分自身を鍛えなおす機会ととらえること。
健康なときは忙しさにかまけて、内面の成長にまで気が回りません。
療養という時間のなかで、自分の魂を昇華させることができれば、病人で
あることを嘆かなくても済みます。
病気や怪我で苦しんでいる苦しみは、決して無駄ではないのです。

セネカ 言
重要なことは
なにを耐え忍んだかということではなく、
いかに耐え忍んだかということだ

もちろん、病気や怪我のことばかりではありません。
自分だけがこのような不幸を背負っているとは思わず、どのように耐えて
自身を成長させるかがカギです。
若い頃の大病で、人生はいろいろであるということを学んだ人は多い。
取り残された気持ちにならず、前向きに耐え忍ぶ時期もあるのです。

正岡子規 言
病気の境涯に処しては、
病気を楽しむということにならなければ
生きていても何の面白味もない

正岡子規が結核に倒れ、激痛と闘った病床随筆「病牀六尺」の言葉。
死の2日前まで書き綴られた「病牀六尺」。
六尺とは、布団の大きさのことを指します。
たったそれだけの空間のなかに、正岡子規の全日常がありました。
それすら、「余には広過ぎる」と言ったそうです。
病気を楽しむことはなかなかできなくても、そのような心持ちでいることが
できれば、多少は苦痛も和らぐかも知れませんね。

フランクリン 言
神が治し、医者が治療費を取る

自然治癒力。 人間が持っている素晴らしい才能です。
病気に勝つためには、自分自身の気力をまず持たなくてはなりません。
その気力を後押ししてくれるのが医学。
患者の生きる意欲や治りたい気持ちを強めながら、最先端の医療を行う
人のことを名医と呼ぶのでしょう。
ただ治療費だけを取って、治療を行わない医師もいます。
そういう医師に目覚めてほしい、聞かせたい言葉でもありますね。

ロマン・ロラン 言
病気はためになることが多い。
肉体を痛めつけることによって魂を解放し、浄める。
一度も病気をしたことのない者は、
十分に自己を知っているとはいえない

重篤な病気をすると誰でも、自分の行く末を考えるようになります。
せわしなく忙しい現代、そういうことを考える時間をくれるのが病気。
そう考えることにより、病気が意義のあるものに変わってきます。
一度も自己を振り返ったことのない人にとって、病気をすることは意味が
あるのかも知れません。

シェークスピア 言
どんな傷でも、治るときはじょじょに治ったのではありませんか

焦らず、腐らず、自暴自棄にならず。
一歩一歩を踏みしめて歩くように、ゆっくりと着実に。
一瞬で治る治療などは存在しません。
心の病気、肉体の病気、そして怪我。
徐々に徐々に、少しずつでいいんです。
亀が歩くスピードで、治していこうじゃありませんか。

病気になって得るものは意外に多いんです。
遠回りになってしまうコトは仕方のないコト。
病気に負けず、頑張って生きていきましょう。
己の魂を浄化するように、健常人が到達できない高みに上るように。

何事も腐っちゃダメですね!
病気を意義のあるものと認識して、ゆっくり治していけばいいんです。
自分自身に言い聞かせるように。
闘病中の人に捧げる名言でした。

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塞翁が馬。

2000年ほど前の中国の書物「淮南子(えなんじ)」に、次のような寓話
が書かれています。
その寓話から生まれた言葉「塞翁が馬」は、生きる上での発想転換に
大いに役立ちます。
今日はその「塞翁が馬」のお話を少し考えてみましょう。

昔、中国の北境の塞(とりで)の近くに住む老人(これで塞翁といいます)
の飼い馬が、胡(北方に住む異民族)の地へ逃げました。
近所の人が気の毒がって慰めると、塞翁は「これが福(さいわい)になら
ぬとはかぎらない」と淡々としていました。

数ヵ月後、その馬は胡の駿馬を連れて帰ってきました。
人々がお祝いを言うと今度は、「これが禍(わざわい)にならぬとはかぎら
ない」と、少しも嬉しそうではありません。

やがて馬は子を産み、良馬が増えました。
そんなある日、乗馬好きの息子が落馬。
足の骨を折る重傷を負いました。
かけつけた人々に今度は「これが福(さいわい)になるかもしれない」と、
相変わらず淡々として言いました。

やがて胡の国が大挙して攻め込んできました。
五体満足な若者は皆戦争に引っ張られてしまい、十人中九人まで戦死。
しかし足の悪い息子は、参戦できなかったため無事でした。

この話のように、長い人生のうちでは、何が禍で何が福か予測できませ
ん。
そのようなとき、「塞翁が馬」という言葉を使います。

何が禍で何が福かを判断できるのは、それなりの時間が経ってから。
また、それを判断する材料となるものには個人差が生じます。

辛いコト、苦しいコトがあったとしても、それが良い経験となって次に活か
せれば、それもまた「塞翁が馬」なのかも知れません。

カーライルという人がこうも言っています。
『経験は最良の教師である。 ただ授業料が高い』と。

失敗と言う体験こそ学ぶものは多い。
損もするし、時には深い痛手を負います。
失敗をして何かを学んだとき、人は少し大人になれます。

困難が立ち塞がったとき、思い出してみましょう。
すべては「塞翁が馬」なのだと。
良くも悪くもその後のストーリーは本人次第。
誰のせいでもありません。

誰かのせいにするのは極めて容易く、また、誰かのために何かをする
という行為も、極めて安易な責任転嫁。
とどのつまりは本人の逃げ道を作っているに過ぎません。

人間万事塞翁が馬
よくよく肝に銘じて、失敗も恐れずに突き進みたいですね。
そのために必要な勇気、絞り出せたら最高です。

それにしてもこの塞翁さん。
先見の明があると言うか、悟りきっちゃってると言うか。
すごいですね。(笑)

わたしも塞翁さんのようになりたいものです。
いちいちクヨクヨしちゃうのは良くありませんね。
もうちょっと大雑把な性格だったら良かったのに。

悩み多く悟りきれない りこ なのでした。

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世の中を知る。

今日は人生や世俗を知る名言を記しましょう。
これら言葉たちを知ったところで多くが変わるものではないでしょうが、
知らないよりはマシだし、真の意味を理解できたら糧となりえます。
わたしも書いていてプラスに感じる部分も多いので、頑張りましょう☆

シェークスピア 言
われわれの人生は織り糸で織られているが、
良い糸も悪い糸も混じっている

人間に完全な「善」など存在しません。
戦争しかり、どちら側から見るかで善悪は変わってしまうものです。
だから、良いコトをしたと思っていても、そこに完全な「善」などありえ
ないのです。
そんななか、自分の判断でも構わないので、ひとつでも多く「善」だと
思える行動を取ったほうがいい。
自身が思う「悪い糸」ばかり増えては、後悔や責念の気持ちばかりが
多くなってしまいます。
できるかぎりの「良い糸」を織り交ぜていきましょう。

チャールズ・ラム 言
はっきり言って、私はいろんな偏見--------
好きと嫌いでつくりあげられた偏見の束にすぎない

人は偏見の塊です。
自分の知らないコトを素直に受け入れられる人、自分の知らないコト
を素直に受け止めきれない人。
みんなが好きと言うコトを好きと言える人、言えない人。
物事の価値観は、それぞれの嗜好の問題であり、それに縛られてし
まうのが人間だとも言えます。
世の中には知らないコトのほうが多いわけだし、好きだと思えないも
のもそれなりに多いはず。
偏見はなくし、もっと幅広い視野で周囲を眺めていきたいですね。

ユゴー 言
大海よりもなお壮大なものは大空であり、
大空よりもなお壮大なものは人心である。

個人個人は、大海も大空も宇宙でさえ、頭(脳)でそれを認識します。
言ってしまえば、個人々々が認識する壮大なものは、すなわち頭の中
の問題であるわけで、それより壮大かつ広大なものは人間の頭であ
ると言えるでしょう。
頭と心は切り離せないものであり、どちらもどちらかを陵駕しない存在。
つまり、人心はもっとも壮大だとユゴーは捉えたわけです。
人間は宇宙を頭の中に入れてしまうほど大きな器。
小さなコトに腹立たせるのはヤメにしましょう、というコトですね。

庄野潤三 言
我々はこの世に間借りしているようなもので、
何もむきになることはない。

人間の生というのは、宗教観によらず、儚いものです。
たかだか数十年といった時間しか現世にいられず、地球の歴史から
すれば、瞬きよりも短い一瞬。
そんな人間が、そんな人間に対してむきになる必要はないし、まして
地球と言う母星を汚す権利もない。
人間にも環境にも優しくいることが、間借り人たるべき姿。
肩身狭くなる必要はありませんが、穏やかに生きましょう。

孔子 言
過ちを犯して改めないことを、過ちという。

失敗を犯すのはどんな偉人にも通常にあること。
そこから学び取るものは実に多く、それ(失敗)を糧として成長します。
単純なコトですが、これができない人は多いはず。

失敗はしたって構わないんです。
それを改めて、頑張っていきましょ。

ルソー 言
いたずらに逃げるものを追いかけるのは、
かえって残っているものを失うことになる。

仕事に於いても、恋に於いても、人間関係に於いてもそうですね。
深追いすればするほど泥沼に嵌るコトも少なくありません。
ある種の淡白さや冷静さを持っているほうが、傷ついたときにも自分
を慰めるコトができます。
あまり熱くなって追いかけては、兎だって捕まらないってコトですね。
(兎を捕まえたコトはありませんが・・・)

いかがでしたか?
一見して読めば、大したコトではありません。
が、深読みすればするほど、生きていく上で重要なコトだと知ります。
わたしも寛容な心で、いちいち腹立つコトもせずに歩んでいきたいと
思います。
辛い日常、多々ありますが、頑張っていきましょうね。

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元気だして。

今日は雨が降っていましたので、塗装は一時凍結。
久しぶりの名言コーナーに移行してみようと思います。

今日のお題は「元気だして生きよう」
疲れ果てた心に灯がともる言葉を選んでみました。

マックス・イーストマン言
転んだときに、どうしてそんなに急いで起き上がらなくてはならない
のか、私にはわからない。
転んだままでいて、少し休もう、と考えたっていいのだ。

仕事での失敗、上手くいかないプライベート、病苦もそうです。
最悪のときに急いで修復しようとしても大抵は無駄な徒労。
少しインターバルを置いて、その悲遇を休息と見立てる。
それが次の一歩への原動力になるし、振り絞る気力も湧いてくるという
もの。
少し休んだっていいのです。

ラ・ロシュフーコー言
人間は、自分が考えるほどそれほど不幸でもないし、幸福でもない

世界でいちばん不幸なような顔をする人がいます。
自分より不幸な人は、実はこの世の中にたくさんいて、自分は下から数
えれば、ずいぶんと上の方にいる。
不幸ごっこをするではなく、自分以外の人生を弁えるコトが肝要です。
そのとき、自分は不幸ではないと思えます。
幸福の度合いは、自身が決めるものではなく、実は他人との比較により
生まれるもの。
もっと苦しんでいる人は、大勢いるのです。

ロダン言
肝心な点は、感動すること、愛すること、望むこと、身震いすること、
生きることだ。

無感動で愛情を持たない生き方は不幸でしかありません。
諸事情があって、それら感情を忘れてしまった方もいると思います。
しかしここでもう一度、感動しようとしてみましょう。
愛そうとしてみましょう。
癒されたいと願うばかりではなく、癒されようと心を運ぶ。
かんたんなようで難しいですが、そういう小さな心の動きが、大きなもの
となって返ってくることもあると思います。
精度を上げたアンテナで、周りのものを見てみましょう。

ショーペンハウエル言
人は、その生涯の最初の40年間で本文を著述し、これにつづく
30年間において、前者についての注釈を付加する。

40年間かけて人生を知り、のちの30年をかけてその人生に批評展開
をする、ということですね。
40年間で人生を見つめることができる人は賢明です。
そしてその後30年のあいだに言ってはいけないこと。
「昔はよかった」
さながら人も社会も進化してゆくもの。
まして自分自身、昔はどうこう言うなかれ、という名言でした。

キングスリー言
人生は、けちな心配事ばかりしているのには短すぎる。

振り返ってみれば、10年前の心配事なんて小さなもの。
そんなものを気にして時間を浪費するのではなく、希望や展望を繰り広
げた心を展開しましょう。
おおよその心配事は、10年先の自分には微笑ましいぐらいなもの。
その日のためになることを、明日のためになることを。
そう割り切るのは、非常に難しい問題でもありますけどね。

サミュエル・バトラー言
人生とは、不十分な前提から、十分な結論を引き出す技術だ。

あらかじめ天から与えられる要素なんて、たかが知れています。
それらを十分に活用して、納得のいく結果を引き出す。
このためには、「できるかぎりやる」という姿勢が必要不可欠です。
志を持っていれば、体現したい何かがあれば、頑張るしかありません。
それが、人生を満足させるための技術なのです。

・・・と、立派な名言を書き記してみましたが、まだまだ自分はヒヨッコ。
これらを本当に納得しているか、体現しているか、計り知れません。
真の意味が分かるようになるのは、30代か、40代か、50代か・・・。
近い未来、達観できる日はくるのだろうか、と思わずにはいられません。

理解できるようになるまで、精進精進。
改めて生きてゆく意味を考えさせられた りこ でした。

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自分につける嘘。

バルワー・リットンという人が言った言葉があります。

『いちばん騙しやすい人間は、すなわち自分自身である』

人間は、自分が思っているほど頑なな生き物でなく、その気になれば
かんたんに自分を騙せる。
疲れた、いや、疲れてなんかない。
調子悪い、いや、調子悪くなんかない。
自己暗示のようなものかも知れません。
でも、そういう考え方は啓発にも似て、自分をごまかせるものです。

人生のなかの坂道。
どんなに急な上り坂でも、実は平坦な道だと思い込む(騙す)コトで、
どうにかこうにか進むコトができるもの。

逆に言えば、大したコトでなくても、大仰なコトだと思えば、そういうふう
に思える。
どちら側に受け取るか、どちら側の嘘をつくかによるところが大きいも
のです。

似たような考え方で、デモステネスが言った言葉。

『自己欺瞞ほど易しいものはない』

これも同じで、自分につく嘘ほど安易で楽な手法はないというコト。
眠い、いや、眠くない。
楽しくない、いや、楽しい。
そういう欺瞞なら、どう欺いてみてもいいのではないでしょうか。

わたしも日々、調子の悪い状態が多々あります。
でも、単純に具合悪いと思いこんでいては、調子が良いと感じるコトも
少なくなってしまう。
だからよく自分を欺きます。
これが普通なんだ、と。

そう思えたら、頭痛が酷くても、頭痛薬を飲めばほら普通通り。
そう思えるようになります。
倦怠感が酷くても、なんとなく体が軽くなったように感じます。

自分につく嘘は、誰かに迷惑をかけるものじゃない。
ネガティブで、誰かを傷つける嘘は、仮に自分自身に対してもつくもの
ではありませんが、ポジティブになれる嘘ならあってもいいかな。
そう思うんです。

人はよく、さまざまな壁に直面します。
そんなとき、心のなかで、ささやくように唱えてみてください。
『まだ全然だいじょうぶだ』
これだけで、何となく前に進める気概が生まれそうな気がします。

何と言っても無料ですしね。(笑)
じゃんじゃん嘘をついて、自分が苦しくならない範囲内であるならば、
この手の欺瞞はあってもいい。
わたしはそう思います。

辛くなったとき、厳しいなと思うとき。
ほんのちょっとの発想の転換でどうにかなれる。
それが自分という生き物なのだと感じています。

前に進むということは、多少なり嘘をつかなければなりません。
自分と他人が傷つかない枠のなかで。

そういう意味においては、毎日がエイプリルフールでもいいかも。
日々、自分に嘘をつきまくっている りこ でした。(笑)

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