行動。

文化勲章受章者である解剖学の大家・勝沼精蔵博士は、
「われわれ人間には、まだまだ三分の二の潜在能力がある。それを
掘り起こした者が天才であり、眠らせて終わるのが凡人だ。」
と説きました。

それを聞いたある人が、
「では、潜在能力を掘り起こすにはどうしたらいいのでしょうか?」
と質問したとき、次の言葉が発せられました。

「行動だよ。 
 
何もしないで、ある日突然潜在能力はあらわれはしない」

机上の瞑想では、己の眠っている才能は目覚めはしません。
行動が伴って初めて潜在能力は触発されます。
常に新しい行動を起こすコトが、眠っている三分の二の能力を掘り起
こす鍵となるのです。

脳にしても、肉体にしても、まだまだ発揮できる能力はあると言われて
います。
それを発揮できた人が優れた人であり、選手であり、学者であります。

でも、能力に秀でるだけが優れた人とも言えません。
品格を身につけ、後続を指導していく力が備わってこそ初めて本当に
優れた人となりえます。

行動を伴い、常に新しい挑戦をし続ける前向きな姿勢。
そこから道は開かれていくのでしょう。

わたしはいま、停滞前線の真っ只中。
家から出もせず、苦痛と孤独と不安の中に身を浸しています。

もっと動かないといけません。

もっと挑戦しないといけません。

底から湧き上がる前向きな感情の赴くままに、行動を起こさなきゃ。

不安や孤独は誰しも持っているもの。
特別な感情ではありません。
それに少しだけ、苦痛がミックスされているに過ぎません。

強く生きるためにも、前向きに努力するためにも、行動を起こさないと
ダメですね。
頑張っていきたいと改めて、心に刻みました。

わたしの眠っている潜在能力が何なのかは未知数です。
でも、ひとつでもふたつでも呼び起こせればいいなと思っています。

みなさんも、壁にぶつかっているときは、行動を起こしてみてください。
きっと打開できる術が見つかるかも知れません。
諦めたら何事も無に帰します。
気持ちで負けないコトが重要ですね。

行動。行動。
何もしないよりまず行動。
少しでも現状を良くしたいと願う りこ でした。

これもツイてるって思うコトで変わると思います。
ツキは呼ぶもの。来るものじゃない。
自分を見つめ直してみたいと思いました。

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ツイてる?ツイてない?

先日、『わかってちょーだい』という番組で、アンケートがありました。

「あなたの人生は ツイてる? ツイてない?」

インターネット投票もあったので、携帯から応募しました。
プレゼントもありましたが、そちらは外れたみたいです。

わたしの人生は、と考えたとき、「ツイてない」の答えでまとまりました。
確かに、ちゃんと食事はできるし、五体満足ではあるけれど、交通事故
から脳脊髄液減少症になったコトで、一気にツイてない度が上昇。
まともに出かけられないし、働くコトもできないし、人と会う約束すらロク
に出来ません。
約束したってキャンセルする場合も多く、だから人と会えなくなりました。

家でずっと籠もりきりの生活、外部との接触はインターネットだけ。
わたしが今死んでも、悲しんでくれるのは家族だけでしょう。
こんな淋しい生活、ツイているわけがない、と思いました。

アンケートでは、約4割の人がツイていると回答。
約6割の人はツイていないと答えました。

でも、ツイていると答えた内訳を見てみると、
・家族が皆健康だから
・子供が受験に合格したから
・娘にありがとうと言われたから
など、家庭内のコトがほとんどでした。

それでツイていると答えられるなら、わたしも衣食住に困っていない現状
は、ツイているというコトになるのでしょう。

逆にツイていないと答えた内訳は、
・会社が倒産したから
・仕事が認められないから
など、会社がらみのコトが多かったです。

まぁ、人生において、「ツイていない」と思った時点でツキはなくなるもの。
どんなにツイていなくても、「俺(私)はツイてる!」と思うほうが、運気は
良い方に巡るのだそうです。
だからわたしも、これからは「ツイている」と思うコトで、運気を上げて行き
たいと思いました。

どんなに些細なコトだっていいんです。
喜ばしいコトがあったり、嬉しいコトがあったりしたら、「自分はツイてる」
と思うようにしたほうが良いです。
そうしたら運気は巡り、ツイている人生になると信じる力が出ます。

人の運は、限られたものだとよく聞きます。
でも、ツイていないと思っている人から、ごく微量でも運気を吸い上げられ
たらいいし、ツイてると思うコトで生まれる何かもあるでしょう。

わたしは今回の特集で、自分のツイていないと思っていた人生だって、
まんざら捨てたものではないんだな、と思うようになりました。
そしてその日から、自分の人生はツイてる、と思うようになりました。

皆さんも、ご自身の人生はツイてる、と思うようにしてください。
そしたらきっと、良いコトがあるかと思います。

大好きなアニメを観られて、大好きなフィギュアを集められて、この人生が
ツイてないわけないんですよね。
ツイてないと思ってた自分にしっぺでもお見舞いしときます。(笑)

わたしの人生は絶好調!ツイてる りこ でした。
脳脊髄液減少症になったのは単なるアクシデント。
そう思えば、少しは人生が明るく開けていきそうな気がしています。
よぉーし、がんばれ!わたし!!

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断じて・・・。

中国の有名な歴史書のひとつ、『史記』の一節にこうあります。

「断じて敢行すれば、鬼神も之れを避く」

意味は、決断した以上は断固たる決意で臨めば、鬼神も敵ではない、とか
決断した以上は無理をしてでもやり抜けば成功する、という感じです。

人が一年間に見舞われるストレスの量は、個人差はあるでしょうが、7割
が虫に刺されたような軽度のもの、残り3割が深刻なものだと言われます。

そして、人は一年間に一回、本当のスランプに陥るようです。
その他のスランプは、もどきとでも言いましょうか、虫刺され程度のものだ
そうです。

「断じて敢行」という意識をもって臨めば、スランプもどきは霧散します。
ですが、本当のスランプは、「断じて敢行」という意識だけでは対処できま
せん。

やる気に加えて、助言や境遇なども関係してくるでしょう。
障壁突破するためには、自らを鼓舞できるような環境にいないといけませ
ん。

助言は、友人だったり先輩だったり、親だったり配偶者だったり。
時にはお医者さんだったり、同じスランプを経験した人だったりします。
骨身に沁みるような言葉をかけてもらえるコトほど、ありがたいコトはない
でしょう。

近年、精神科医は増えていても、本当のこころの病を治せるお医者さんは
少ないように思います。
患者の心に深く入りすぎてもいけないけれど、入らなさ過ぎも良くないです。

本人の気持ち次第、という人もいますが、心が弱っているときは、どうして
も気力が湧きません。
物事を司っているのは気力、精神力。
体力がいかにあろうと、気持ちが萎えてしまってはどうしようもありません。

こころの病を患う人は少なからず、病気という鬼神に負けてしまいます。
それは、「断じて敢行」できない状況に置かれているに過ぎません。
それを救えるのは、ひょっとしたら隣にいる誰かかも知れないし、明日の
自分かも知れません。

精神的に弱っている人に対して、「気持ち次第」とか「君が悪い」なんてい
うコトは絶対に言ってはいけないし、それは優しさではありません。
親身に話を聞いてあげるコト、そして、少なからず道標を示してあげるコト
が重要だと思います。

こころの病は、誰しもかかりうるものです。
自分が本当にスランプに陥って、誰かに救いを求めたとき、あしらわれて
しまったら悲しいと思います。

「義を見てせざるは勇無きなり」と言うように、こころの病の人を救うのは
非常に骨が折れるコトでも、目の前に弱っている人があれば、助けてあげ
るべきだと思います。
徳行を積む、といっては可笑しな表現かも知れませんが、助けてあげれば
自身の徳が上がる。
大事に考えてあげるコトこそ、弱者を救う道だと考えています。

わたしは、精神的に弱っている人がいたら、放ってはおけない性質です。
また逆に、自分も助けて欲しい願望を持っています。

世の中がいかに荒んでも、人としての心、救済の気持ちは持っておきたい
ものですね。
いつ、自分が弱者側の立場に立たされるか分からないのですから。

「断じて敢行すれば、鬼神も之れを避く」

鬼神は、色々な側面を持ち、色々な場面で姿を現します。
鬼神が自分のもとを避けて通ってくれるようにするには、品行方正、そして
笑顔で人と接するコトが肝要でしょう。
それでも鬼神が現れたとき、人が助けてくれると信じたいものです。

今日は、少し澱んだ空気を自分の中に感じました。
表面化してたのか、表面化していなかったのか分かりませんが、反省の材
料があります。
でも、それも精神的に不安定な毎日を耐えている結果。
今の不安定さを失くせるように、努力しないといけませんね。

わたしの中に潜む、病気と言う鬼神に負けないように、全力で戦いたいと
思いました。
明日は今日よりも笑顔で過ごせるよう、頑張らなくっちゃ。

深夜に物思う、不安定さに染上げられた りこ でした。
楽しいコトって、動かないと何もありませんね。
家で鬱々としているから、気力のチャージもままならないんだろうなぁ。。。

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日本語をもっと愛して。

読売新聞3月6日版に、国語力についての記事がありました。
以下、要点をかいつまんで書きますと、

国語力を試す検定試験が新年度から相次いで始まる。
Z会の「国語力検定」や教科書会社東京書籍の「日本語検定」だ。
背景には国語力不足への危機感がある。

きっかけは、添削指導の担当者らが、子供の言葉遣いの乱れや語彙の
乏しさ、誤字脱字の多さをしきりに指摘するようになったからだ。

たとえば、小学5、6年生に慣用句の使い方を書かせるとこんなふうだ。
「折り紙付き=おもちゃを買ったら折り紙付きだった」
「右往左往=サッカーのPK戦で、右に蹴るか左に蹴るかで右往左往」
「視野=兄はコンタクトレンズにしてから視野が広がった」

中学生でも事情は変わらない。
「成積」「こんにちわ」「こんばんわ」「夏体み」などの誤字はよく目にする。
「徹○徹○」の○を埋める問題を解かせたところ、9割が正答できなかっ
たという。

空欄を埋めて、ことわざや慣用句を完成させる問題では、
「雲○の差」・・・・正答率27%
「○○は剣よりも強し」・・・・正答率16%

Z会国語力研究所の川淵健二代表は、
「読書量の減少やコミュニケーション不足、受験偏重の学習など様々な
要因がありそうだ。今のままでは、人と会話もろくにできない大人が増え
てしまう」と訴える。

Z会の「国語力検定」は受験料3500円。
教科書会社東京書籍の「日本語検定」は受験料1500~5000円。

企業からも、「新人社員研修として使いたい」という問い合わせも来ている。
東京書籍の武元善広・検定事業部長は「日本語を捉え直す機会にしてほ
しい」としている。

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「こんにちわ」「こんばんわ」は本当によく見かけますね。
「こんにちは」の「は」は、
「今日(こんにち)は、ご機嫌いかがですか?」の「ご機嫌いかがですか?」
を略したかたち、つまり助詞です。
決して「こんにちわ」ではありません。

同時に多く見かけられるのが「確率」を「確立」とすることば。
「確立」は、制度や組織、計画などをしっかりと打ち立てること。
「確率」は、ある事象の起こる可能性のこと。
まったく意味合いが違いますが、ごちゃまぜになっているようです。

慣用句やことわざも、その成り立ちを知れば、きっと間違えずに済むもの
ですが、学校ではあまり教えてくれません。
慣用句やことわざの成り立ちを書いた本も多数出版されています。
それらを読んで、語彙力を身に付けてほしいですね。

大和の時代から脈々と受け継がれ、時にかたちを変えながら現代に至る
日本語。
もっと愛して、もっと身に付けて、使いこなしてほしいです。
最近は言葉が乱れ、美しい日本語をあまり聞かなくなりました。

テレビの影響で、標準語が蔓延し、地方でも方言を耳にしません。
それが格好いいと思っているのか分かりませんが、淋しいコトです。
日本語の良さは、標準語ではなく、方言にこそあるというのに。

また、わたしは略語も好きではありません。
わたしのブログを今まで読んでくれている方なら分かると思いますが、わ
たしは滅多に略語を使いません。
打ち込むのにたとえ面倒でも、正確な名前を書き込んでいます。
これはわたしのポリシーみたいなもので、人に押し付ける気はありません
が、貫いていくつもりです。
話し言葉では略語を使わないコトもないのですけどね。

書き言葉、話し言葉ともに、わたしは言葉遣いには気を払っています。
美しい言葉には、美しい精神が宿ると信じているからです。
世の中が荒んだ方向へ向かうのは、言葉遣いが乱れているのも原因だと
思っています。
もっと美しい言葉を浸透させるべきでしょうね。

わたしの愛する日本語が、かつての輝きを取り戻しますように。
平安の貴族たちが巧みに使いこなした、「もののあはれ」を歌う言葉が。

本を読み、言葉に執着すれば、きっと日本語は楽しく覚えられます。
最近の子供たち、そして大人たちの語彙力不足に、淋しささえ感じる りこ
でした。

堅苦しいコトは言いませんが、もっと上手に日本語を使いましょう。 ね。

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友達。

友達はいいものです。
現状、病気と闘っているわたしには、現実世界の友達は少ないです。
それでも、友情が大事だというのは重々理解しているつもりです。
今日は、『友情』にまつわる名言をご紹介します。

坂村真民 言
二度とない人生だから、まず一番身近な者たちに
できるだけのことをしよう
貧しいけれど、心豊かに接してゆこう

身近な者たちとは、肉親を除けばそれは友達。
「都会の中の孤独死」にならないように、身近な友達にはできるだけのコト
をしたいものです。
それができるかできないかによって、状況はきっと変わるはず。
貧しくてもいいじゃない。
心豊かに接していきたいですね。

シェークスピア 言
人々は、悲しみを分かち合ってくれる友達さえいれば、
悲しみは和らげられる

悲しみや苦しみ、辛さを分かち合うコトと、傷を舐めあうコトは違います。
そして、悲しみや苦しみを本当に味わった人でなければ、辛さを共有する
コトは難しいのかも知れません。
辛いとき、本当に支えてくれるのは、家族と、理解しあえる友達。
人は苦しみを一人で背負っていけるほど強くはありません。
強さとは、常に独りよがりの変形なのかも知れません。

英国の諺
友と葡萄酒は古きほど良し

竹馬の友、腐れ縁、幼馴染、色々と状況は異なり、呼び方も異なります。
でも、長く付き合った友達は、あるいは夫婦の契りを交わした相手よりも
理解してくれる存在かも知れません。
人間関係にも、芳醇、完熟、芳香、味わいがあります。
人生の滋味にも似た友情は、葡萄酒よりも心なごむものかも知れません。

シェークスピア 言
人の言葉は善意に取れ  そのほうが5倍も賢い

相手の放った言葉にカチンとくるコトは誰しもあります。
言葉の行き違いは互いにあるコトだし、それは許しあうべきもの。
そんなとき、無理にでも思い出したいこの言葉。
悪意で言っているのではないのだから、善意で受け取れば良い関係しか
残りませんね。

論語
直(なお)きを友とし、諒(まこと)を友とし、
多聞を友とするは、益なり
便辟(べんぺき)を友とし、善柔を友とし、
便佞(べんねい)を友とするは、損なり

正直な人、誠実な人、見識豊かな人を友とするのは幸いである。
こびへつらう人、外見ばかり柔和で不誠実な人、口先ばかり達者な人は
友人として不適格だ、という意味です。
逆にとらえれば、自分がどういう人間であれば、友人として迎えられるか。
そこを第一に考え、そういう人間になれる努力をするコトが肝要ですね。
馬鹿にされるぐらい正直で、誠実でもいいと思います。
それで友達に恵まれるのなら・・・ね。

後漢書
貧賤の交わり忘るるべからず
糟糠(そうこう)の妻は堂より下げず

貧しいときの友達こそ本当の友達です。
若さ以外に何もない貧しいころ、ともに安酒を酌み合って呑んだ間柄には
何の不純性もないからです。
そして、自分が苦しいときに共に過ごした妻を、自分が偉くなったからとて
粗末にしてはいけません。
糟糠(そうこう)とは、酒糟(さけかす)、糠(ぬか)のコト。
粗末な食事を一緒に食べた仲、というコトです。
いずれ自分が成功したとき、思い出したい言葉ですね。

英国の諺
順境は友を作り、逆境は友を試みる

知り合いと友達は違います。
知り合いは、こちらが調子いいときはどんどん出来ます。
そしてこちらの調子が悪くなると、サーッと引いてしまう波のよう。
友達はそんなとき、ちゃんと残ってくれる存在のコトです。
自分が波のようにはなりたくないものですね。

モンテーニュ 言
真の友愛においては、私は友を自分の方に引き寄せるよりも、
むしろ自分を友に与える

友人を繋ぎとめるのは相手から得る恩恵ではなく、自分が与えるコトにあ
るのだ、という言葉です。
生涯の友達を得ようとするならば、無償の奉仕さえ厭わない心が大事。
その関係が常に出来ているようならば、親友や永遠の友を作るコトさえも
難しくはないでしょう。

友達とは、自分の姿の顕れであり、親友とはもう一人の自分です。
たくさんの「自分」を増やして、人生を豊かに送りたいものですね。
人生において、最終的に必要なのはお金ではありません。
お金は争いや諍いを生みますが、本当の友情は死ぬまで温かいものです。
そういう関係を多く作れる人は、人間的に素晴らしい人と言えるでしょう。

わたしも、今は友達が少ない現状。
早く病気を治して、友達をたくさん作りたいと思います。
でも、今わたしの友達でいてくれる人たちは、わたしが苦しいときの友達。
きっとずっと仲良くしていける気がしています。

拙い人間であるわたしを育んでくれる友達は、大事にしていきたいです。
頼りないヒヨッコではありますが、よろしくお願い致します。

友達という関係について、改めて考えさせられた りこ でした。

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病気に侵され不安なとき。

不意に襲ってくる病気や怪我。
それらに対して、精神まで負けてしまわないようにしなければなりません。
今日は、病に立ち向かう気力を分けてもらえる名言を紹介しましょう。

門田博光 言
人生最大のピンチが、じつはチャンスだった

41歳まで現役で活躍したプロ野球選手です。
昭和54年、アキレス腱断裂。 医師から再起不能を言い渡されます。
そのとき、「菜根譚」という古典を読み始めます。
以来、怪我は「休む時間」と「考える時間」を与えてくれたと思うようになり
ました。
ピンチの際に培った内面の成長に支えられ、記録を打ち立てていきまし
た。

プルースト 言
病人というものは、健常人よりも自分の魂により近く迫るものだ

病気や怪我は、自分自身を鍛えなおす機会ととらえること。
健康なときは忙しさにかまけて、内面の成長にまで気が回りません。
療養という時間のなかで、自分の魂を昇華させることができれば、病人で
あることを嘆かなくても済みます。
病気や怪我で苦しんでいる苦しみは、決して無駄ではないのです。

セネカ 言
重要なことは
なにを耐え忍んだかということではなく、
いかに耐え忍んだかということだ

もちろん、病気や怪我のことばかりではありません。
自分だけがこのような不幸を背負っているとは思わず、どのように耐えて
自身を成長させるかがカギです。
若い頃の大病で、人生はいろいろであるということを学んだ人は多い。
取り残された気持ちにならず、前向きに耐え忍ぶ時期もあるのです。

正岡子規 言
病気の境涯に処しては、
病気を楽しむということにならなければ
生きていても何の面白味もない

正岡子規が結核に倒れ、激痛と闘った病床随筆「病牀六尺」の言葉。
死の2日前まで書き綴られた「病牀六尺」。
六尺とは、布団の大きさのことを指します。
たったそれだけの空間のなかに、正岡子規の全日常がありました。
それすら、「余には広過ぎる」と言ったそうです。
病気を楽しむことはなかなかできなくても、そのような心持ちでいることが
できれば、多少は苦痛も和らぐかも知れませんね。

フランクリン 言
神が治し、医者が治療費を取る

自然治癒力。 人間が持っている素晴らしい才能です。
病気に勝つためには、自分自身の気力をまず持たなくてはなりません。
その気力を後押ししてくれるのが医学。
患者の生きる意欲や治りたい気持ちを強めながら、最先端の医療を行う
人のことを名医と呼ぶのでしょう。
ただ治療費だけを取って、治療を行わない医師もいます。
そういう医師に目覚めてほしい、聞かせたい言葉でもありますね。

ロマン・ロラン 言
病気はためになることが多い。
肉体を痛めつけることによって魂を解放し、浄める。
一度も病気をしたことのない者は、
十分に自己を知っているとはいえない

重篤な病気をすると誰でも、自分の行く末を考えるようになります。
せわしなく忙しい現代、そういうことを考える時間をくれるのが病気。
そう考えることにより、病気が意義のあるものに変わってきます。
一度も自己を振り返ったことのない人にとって、病気をすることは意味が
あるのかも知れません。

シェークスピア 言
どんな傷でも、治るときはじょじょに治ったのではありませんか

焦らず、腐らず、自暴自棄にならず。
一歩一歩を踏みしめて歩くように、ゆっくりと着実に。
一瞬で治る治療などは存在しません。
心の病気、肉体の病気、そして怪我。
徐々に徐々に、少しずつでいいんです。
亀が歩くスピードで、治していこうじゃありませんか。

病気になって得るものは意外に多いんです。
遠回りになってしまうコトは仕方のないコト。
病気に負けず、頑張って生きていきましょう。
己の魂を浄化するように、健常人が到達できない高みに上るように。

何事も腐っちゃダメですね!
病気を意義のあるものと認識して、ゆっくり治していけばいいんです。
自分自身に言い聞かせるように。
闘病中の人に捧げる名言でした。

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塞翁が馬。

2000年ほど前の中国の書物「淮南子(えなんじ)」に、次のような寓話
が書かれています。
その寓話から生まれた言葉「塞翁が馬」は、生きる上での発想転換に
大いに役立ちます。
今日はその「塞翁が馬」のお話を少し考えてみましょう。

昔、中国の北境の塞(とりで)の近くに住む老人(これで塞翁といいます)
の飼い馬が、胡(北方に住む異民族)の地へ逃げました。
近所の人が気の毒がって慰めると、塞翁は「これが福(さいわい)になら
ぬとはかぎらない」と淡々としていました。

数ヵ月後、その馬は胡の駿馬を連れて帰ってきました。
人々がお祝いを言うと今度は、「これが禍(わざわい)にならぬとはかぎら
ない」と、少しも嬉しそうではありません。

やがて馬は子を産み、良馬が増えました。
そんなある日、乗馬好きの息子が落馬。
足の骨を折る重傷を負いました。
かけつけた人々に今度は「これが福(さいわい)になるかもしれない」と、
相変わらず淡々として言いました。

やがて胡の国が大挙して攻め込んできました。
五体満足な若者は皆戦争に引っ張られてしまい、十人中九人まで戦死。
しかし足の悪い息子は、参戦できなかったため無事でした。

この話のように、長い人生のうちでは、何が禍で何が福か予測できませ
ん。
そのようなとき、「塞翁が馬」という言葉を使います。

何が禍で何が福かを判断できるのは、それなりの時間が経ってから。
また、それを判断する材料となるものには個人差が生じます。

辛いコト、苦しいコトがあったとしても、それが良い経験となって次に活か
せれば、それもまた「塞翁が馬」なのかも知れません。

カーライルという人がこうも言っています。
『経験は最良の教師である。 ただ授業料が高い』と。

失敗と言う体験こそ学ぶものは多い。
損もするし、時には深い痛手を負います。
失敗をして何かを学んだとき、人は少し大人になれます。

困難が立ち塞がったとき、思い出してみましょう。
すべては「塞翁が馬」なのだと。
良くも悪くもその後のストーリーは本人次第。
誰のせいでもありません。

誰かのせいにするのは極めて容易く、また、誰かのために何かをする
という行為も、極めて安易な責任転嫁。
とどのつまりは本人の逃げ道を作っているに過ぎません。

人間万事塞翁が馬
よくよく肝に銘じて、失敗も恐れずに突き進みたいですね。
そのために必要な勇気、絞り出せたら最高です。

それにしてもこの塞翁さん。
先見の明があると言うか、悟りきっちゃってると言うか。
すごいですね。(笑)

わたしも塞翁さんのようになりたいものです。
いちいちクヨクヨしちゃうのは良くありませんね。
もうちょっと大雑把な性格だったら良かったのに。

悩み多く悟りきれない りこ なのでした。

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世の中を知る。

今日は人生や世俗を知る名言を記しましょう。
これら言葉たちを知ったところで多くが変わるものではないでしょうが、
知らないよりはマシだし、真の意味を理解できたら糧となりえます。
わたしも書いていてプラスに感じる部分も多いので、頑張りましょう☆

シェークスピア 言
われわれの人生は織り糸で織られているが、
良い糸も悪い糸も混じっている

人間に完全な「善」など存在しません。
戦争しかり、どちら側から見るかで善悪は変わってしまうものです。
だから、良いコトをしたと思っていても、そこに完全な「善」などありえ
ないのです。
そんななか、自分の判断でも構わないので、ひとつでも多く「善」だと
思える行動を取ったほうがいい。
自身が思う「悪い糸」ばかり増えては、後悔や責念の気持ちばかりが
多くなってしまいます。
できるかぎりの「良い糸」を織り交ぜていきましょう。

チャールズ・ラム 言
はっきり言って、私はいろんな偏見--------
好きと嫌いでつくりあげられた偏見の束にすぎない

人は偏見の塊です。
自分の知らないコトを素直に受け入れられる人、自分の知らないコト
を素直に受け止めきれない人。
みんなが好きと言うコトを好きと言える人、言えない人。
物事の価値観は、それぞれの嗜好の問題であり、それに縛られてし
まうのが人間だとも言えます。
世の中には知らないコトのほうが多いわけだし、好きだと思えないも
のもそれなりに多いはず。
偏見はなくし、もっと幅広い視野で周囲を眺めていきたいですね。

ユゴー 言
大海よりもなお壮大なものは大空であり、
大空よりもなお壮大なものは人心である。

個人個人は、大海も大空も宇宙でさえ、頭(脳)でそれを認識します。
言ってしまえば、個人々々が認識する壮大なものは、すなわち頭の中
の問題であるわけで、それより壮大かつ広大なものは人間の頭であ
ると言えるでしょう。
頭と心は切り離せないものであり、どちらもどちらかを陵駕しない存在。
つまり、人心はもっとも壮大だとユゴーは捉えたわけです。
人間は宇宙を頭の中に入れてしまうほど大きな器。
小さなコトに腹立たせるのはヤメにしましょう、というコトですね。

庄野潤三 言
我々はこの世に間借りしているようなもので、
何もむきになることはない。

人間の生というのは、宗教観によらず、儚いものです。
たかだか数十年といった時間しか現世にいられず、地球の歴史から
すれば、瞬きよりも短い一瞬。
そんな人間が、そんな人間に対してむきになる必要はないし、まして
地球と言う母星を汚す権利もない。
人間にも環境にも優しくいることが、間借り人たるべき姿。
肩身狭くなる必要はありませんが、穏やかに生きましょう。

孔子 言
過ちを犯して改めないことを、過ちという。

失敗を犯すのはどんな偉人にも通常にあること。
そこから学び取るものは実に多く、それ(失敗)を糧として成長します。
単純なコトですが、これができない人は多いはず。

失敗はしたって構わないんです。
それを改めて、頑張っていきましょ。

ルソー 言
いたずらに逃げるものを追いかけるのは、
かえって残っているものを失うことになる。

仕事に於いても、恋に於いても、人間関係に於いてもそうですね。
深追いすればするほど泥沼に嵌るコトも少なくありません。
ある種の淡白さや冷静さを持っているほうが、傷ついたときにも自分
を慰めるコトができます。
あまり熱くなって追いかけては、兎だって捕まらないってコトですね。
(兎を捕まえたコトはありませんが・・・)

いかがでしたか?
一見して読めば、大したコトではありません。
が、深読みすればするほど、生きていく上で重要なコトだと知ります。
わたしも寛容な心で、いちいち腹立つコトもせずに歩んでいきたいと
思います。
辛い日常、多々ありますが、頑張っていきましょうね。

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元気だして。

今日は雨が降っていましたので、塗装は一時凍結。
久しぶりの名言コーナーに移行してみようと思います。

今日のお題は「元気だして生きよう」
疲れ果てた心に灯がともる言葉を選んでみました。

マックス・イーストマン言
転んだときに、どうしてそんなに急いで起き上がらなくてはならない
のか、私にはわからない。
転んだままでいて、少し休もう、と考えたっていいのだ。

仕事での失敗、上手くいかないプライベート、病苦もそうです。
最悪のときに急いで修復しようとしても大抵は無駄な徒労。
少しインターバルを置いて、その悲遇を休息と見立てる。
それが次の一歩への原動力になるし、振り絞る気力も湧いてくるという
もの。
少し休んだっていいのです。

ラ・ロシュフーコー言
人間は、自分が考えるほどそれほど不幸でもないし、幸福でもない

世界でいちばん不幸なような顔をする人がいます。
自分より不幸な人は、実はこの世の中にたくさんいて、自分は下から数
えれば、ずいぶんと上の方にいる。
不幸ごっこをするではなく、自分以外の人生を弁えるコトが肝要です。
そのとき、自分は不幸ではないと思えます。
幸福の度合いは、自身が決めるものではなく、実は他人との比較により
生まれるもの。
もっと苦しんでいる人は、大勢いるのです。

ロダン言
肝心な点は、感動すること、愛すること、望むこと、身震いすること、
生きることだ。

無感動で愛情を持たない生き方は不幸でしかありません。
諸事情があって、それら感情を忘れてしまった方もいると思います。
しかしここでもう一度、感動しようとしてみましょう。
愛そうとしてみましょう。
癒されたいと願うばかりではなく、癒されようと心を運ぶ。
かんたんなようで難しいですが、そういう小さな心の動きが、大きなもの
となって返ってくることもあると思います。
精度を上げたアンテナで、周りのものを見てみましょう。

ショーペンハウエル言
人は、その生涯の最初の40年間で本文を著述し、これにつづく
30年間において、前者についての注釈を付加する。

40年間かけて人生を知り、のちの30年をかけてその人生に批評展開
をする、ということですね。
40年間で人生を見つめることができる人は賢明です。
そしてその後30年のあいだに言ってはいけないこと。
「昔はよかった」
さながら人も社会も進化してゆくもの。
まして自分自身、昔はどうこう言うなかれ、という名言でした。

キングスリー言
人生は、けちな心配事ばかりしているのには短すぎる。

振り返ってみれば、10年前の心配事なんて小さなもの。
そんなものを気にして時間を浪費するのではなく、希望や展望を繰り広
げた心を展開しましょう。
おおよその心配事は、10年先の自分には微笑ましいぐらいなもの。
その日のためになることを、明日のためになることを。
そう割り切るのは、非常に難しい問題でもありますけどね。

サミュエル・バトラー言
人生とは、不十分な前提から、十分な結論を引き出す技術だ。

あらかじめ天から与えられる要素なんて、たかが知れています。
それらを十分に活用して、納得のいく結果を引き出す。
このためには、「できるかぎりやる」という姿勢が必要不可欠です。
志を持っていれば、体現したい何かがあれば、頑張るしかありません。
それが、人生を満足させるための技術なのです。

・・・と、立派な名言を書き記してみましたが、まだまだ自分はヒヨッコ。
これらを本当に納得しているか、体現しているか、計り知れません。
真の意味が分かるようになるのは、30代か、40代か、50代か・・・。
近い未来、達観できる日はくるのだろうか、と思わずにはいられません。

理解できるようになるまで、精進精進。
改めて生きてゆく意味を考えさせられた りこ でした。

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自分につける嘘。

バルワー・リットンという人が言った言葉があります。

『いちばん騙しやすい人間は、すなわち自分自身である』

人間は、自分が思っているほど頑なな生き物でなく、その気になれば
かんたんに自分を騙せる。
疲れた、いや、疲れてなんかない。
調子悪い、いや、調子悪くなんかない。
自己暗示のようなものかも知れません。
でも、そういう考え方は啓発にも似て、自分をごまかせるものです。

人生のなかの坂道。
どんなに急な上り坂でも、実は平坦な道だと思い込む(騙す)コトで、
どうにかこうにか進むコトができるもの。

逆に言えば、大したコトでなくても、大仰なコトだと思えば、そういうふう
に思える。
どちら側に受け取るか、どちら側の嘘をつくかによるところが大きいも
のです。

似たような考え方で、デモステネスが言った言葉。

『自己欺瞞ほど易しいものはない』

これも同じで、自分につく嘘ほど安易で楽な手法はないというコト。
眠い、いや、眠くない。
楽しくない、いや、楽しい。
そういう欺瞞なら、どう欺いてみてもいいのではないでしょうか。

わたしも日々、調子の悪い状態が多々あります。
でも、単純に具合悪いと思いこんでいては、調子が良いと感じるコトも
少なくなってしまう。
だからよく自分を欺きます。
これが普通なんだ、と。

そう思えたら、頭痛が酷くても、頭痛薬を飲めばほら普通通り。
そう思えるようになります。
倦怠感が酷くても、なんとなく体が軽くなったように感じます。

自分につく嘘は、誰かに迷惑をかけるものじゃない。
ネガティブで、誰かを傷つける嘘は、仮に自分自身に対してもつくもの
ではありませんが、ポジティブになれる嘘ならあってもいいかな。
そう思うんです。

人はよく、さまざまな壁に直面します。
そんなとき、心のなかで、ささやくように唱えてみてください。
『まだ全然だいじょうぶだ』
これだけで、何となく前に進める気概が生まれそうな気がします。

何と言っても無料ですしね。(笑)
じゃんじゃん嘘をついて、自分が苦しくならない範囲内であるならば、
この手の欺瞞はあってもいい。
わたしはそう思います。

辛くなったとき、厳しいなと思うとき。
ほんのちょっとの発想の転換でどうにかなれる。
それが自分という生き物なのだと感じています。

前に進むということは、多少なり嘘をつかなければなりません。
自分と他人が傷つかない枠のなかで。

そういう意味においては、毎日がエイプリルフールでもいいかも。
日々、自分に嘘をつきまくっている りこ でした。(笑)

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名言に心を浸して。

今日は久しぶりに名言集を載せてみようと思います。
弱っているとき、何かに負けそうなとき、この言葉たちを思い返せる
ように。
読んでくださる皆さまの心にも、何らかの灯が燈ればいいな・・・。

むのたけじ 言
煮られても、踏まれても、裂かれても、これがおれだという
もの、それは一体何だ。
何があってもそれがなければ満たされず、何が欠けても
それがあれば満たされるもの、それは一体何だ。

問いかけですね。
自分自身の「それ」があれば、他にどんな艱難辛苦があろうとも
耐えられるもの。
わたしにとってそれは何でしょう・・・。

かけがえのないもの、自分自身の大切なもの。
それを探す旅の途中のような気もします。
見つかったとき、至福の喜びを感じうるもの。
それは一体何でしょうか・・・。

ブルターク 言
失うことを恐れるあまり、必要な物を手に入れることも断念
するという人は、理屈にも合わないし、卑怯である。

人は自分の立場や環境、金銭等を失いたくないものです。
何かを失う可能性があるからと、前に進めない人も多いはず。
何かを得るというコトは、何かを失うコトで為されるコト。
必要な対価、とでもいいましょうか。

前に進みたくば、何らかを失う覚悟をしておけ。
ブルタークさんはそう言いたかったのでしょうね。
わたしも失うコトが怖いです。
でも、失わなければ始まらないコトもある。
難しい鬩ぎ合いになりそうですね。。。

高山樗牛 言
己れの立てるところを深く掘れ。
そこには必ず泉あらむ。

自分自身が窮したとき、見つめ直し、なぜそうなったかを掘り下げる
行為。
これが為せれば、必ず活路は見出せる。
わたし自身も、最近は自分の在り方に困っています。
どうしたら良いかを模索するには、自身を見つめ直すコトが肝要と
いうコトですね。
必ず、泉あらむ。
そう願って、自身を見つめなおしてみましょう。

ゲーテ 言
空気と光と、そして友だちの愛。
これだけが残っていれば、気を落とすことはない。

いまわの際に「もっと光を!」と言葉を発したゲーテらしく、希望に
満ち溢れている言葉です。
光とは即ち希望。
空気で生き、希望で生き、愛で生き、それだけがあれば、ほかに
どんな苦難があろうとも生きていける。
落胆するのは、それらが無くなったとき・・・というコトですね。
気を落とすのは、まだ早い。

鳥居元忠 言
我が身にのしかかる重大事は、精神を旺んにして腰を据え、
無二無三に踏み破ってつき通らねば埒があかぬものだ。

自身に振りかかる火の粉は、とにかく落ち着き、全力で払えという
意味合いですね。
火の粉は、時に間違えば大火事になるものです。
その前に払えれば良いのですが、たとえ火事になっても、まだ諦め
ずに全力を出せばどうにかなる。
現状に火事を感じている場合でも、どうにでもできる、というコトに
なりますね。
要は自分の振り方次第ということです。

自分が困ったコトは、必ず誰かも同じコトで困っていた。
つまり、自分と同じ思いをした人の言葉こそ、真に役立つアドバイス
になります。

本だけで得られるものなどなく、TVでも雑誌でもインターネットでも、
活用できるものは何なりと用い、乗り切る度量が必要です。

ここで紹介している言葉が、誰かの支えになれますように。
そして自分自身の助けになりますように。
そう祈るばかりです。

とにもかくにも、自分次第ってコトですね。
がんばらないと!!

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諦めないで。

久しぶりに、名言集を組んでみたいと思います。
とかく体調の悪さから、人生に絶望を感じたりする今日この頃。
自分への応援の意味も含め、戦う意義を唱えてみます。
何かに悩んでいる方、是非ご一読を。

アントニオ猪木 言
よく、これがもう俺の限界だと、弱音を吐く奴がいる。
限界だ、限界だ・・・と、口癖ではなかろうかと思うぐらい、
「限界」の二文字を口に出す。
私に言わせれば、「限界」なんて言葉はこの世にはない。
「限界」と言うから、限界ができるのだ。
なぜ自分から「限界」という一線をひかねばならないのか。
もともとありはしない「限界」にこだわると、己の力に疑問を
持つようになり、しくじったり、できなかったとき、
「ああ、これが俺の限界だ、もうダメだ」
とギブアップしてしまう。

わたしも耐え切れぬ痛みや吐き気が訪れたり、外出先で力尽きた
とき、「限界」と言ってしまいます。
自分自身に最期のラインを引きたくないから、極力使わないように
していても、出てしまうときがあります。
それを諌めるには、自分に限界などない、という信念。

「行けばわかるさ」の名言もそうですが、限界を自分で決めてしまう
現代人には、警告めいた意味合いで伝わりますね。
人間の力には、己で決める限界なんて、ありはしないのです。
今よりもっと、「限界」という言葉の意味を考えて生きよう。
そう思える言葉ですね。

釈迦 言
苦悩の超克を実現するための聖なる道は八つの部分から
なる。
すなわち、正しい見解、正しい決意、正しいことば、正しい
行為、正しい生活、正しい努力、正しい思念、正しい瞑想で
ある。

自分の見解が合っていると思い込む人がいます。
自分の決意が正しいと信じてやまぬ人がいます。
自分の言葉が人を傷つけぬと思い込む人がいます。
自分の行為が万事正解だと信じてやまぬ人がいます。
自分の生活が律されたものと思い込む人がいます。
自分の努力は理に叶ったものと信じてやまぬ人がいます。
自分の思念が誰しもの理想と思い込む人がいます。
自分の瞑想が閃きを生むと信じてやまぬ人がいます。

それらをすべて、もう一度考え直し、角度を変えてみよと、釈迦が
言っているように受け取れます。
苦悩は超えられるもの。
これら八つの崇高なことさえ行えば・・・・。

遠藤周作 言
黄昏の砂浜は歩きづいらいが、振り返ると波打ち際に自分の
足跡が・・・自分だけの足跡が・・・一つ一つ残っている。
アスファルトの道は歩きやすいが、そこに足跡など残りはしな
い。

確かに、歩きづらい道にこそ、足跡は残るもの。
それすなわち、生きてきた意味を残すということ。
同じ目的地に着くとしても、振り返れる足跡を残したゴールほど気持
ち良いものはありません。
歩いてきたのか、飛んできたのか分からないゴールでは、感動さえ
半減しますね。
しっかりと足跡を残していきましょう。
間違い、よれて、立ち止まった足跡だって、残さぬより良いのです。

梅原猛 言
人生はただ向こうから与えられるものではない。
自ら創ってゆくものである。
自ら創ってゆくには、やはり三つの段階が必要なのだ。
ラクダの人生とライオンの人生と小児の人生。
言い換えれば、忍耐の人生、勇気の人生、創造の人生である。

待っているだけじゃダメってコトですね。
苦しきときに耐え忍び、ここぞと言うときに勇気を振り絞り、そして
何事につけても創造を欠かぬコト。
これが人生を創ってゆく、というコトなのでしょう。

とかく人は、勇気より保身が優先し、耐え忍べずに投げ出したり、
または人のせいにしたりして絶望する。
創造主を渇望し、自ら創造をしないで済まそうとする。
これでは、自らの人生を描くコトなんて出来ない。

雌伏もまた静かなる戦いなのである。

敢えて地に伏せ、寝ているようなさまをしていても、常に機を伺う
べきです。
臥竜たる諸葛亮孔明のように、天を伺うためには、地に伏せると
いう時期も必要なのです。

伏せている現状に満足できず、嘆き悲しむのは、後でも構わない
ような気がします。
諦めないで、諦めないで、耐え忍ぶ心。
それを置き去りにしてはいけませんね。

さて、今回の名言集はここで終わりにしたいと思います。
まだまだ人生の途中。
必ず景色は変わり、明るい未来が備え付けられているはず。

勝手に限界と決めず、戦わなくっちゃ。

だいじょうぶ。
もっともっと、頑張るゾ☆

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壁にぶつかったとき。

今日は久しぶりの名言特集を書いてみたいと思います。
壁にぶつかったとき、挫折感を覚えたとき、思い出せる言葉が書ける
と良いなと思います。

それでは、綴り開始。

遠藤周作 言
今の若い世代にもっとも欠けているのは「屈辱感に耐える」
訓練である。
この訓練が行われないで、そのまま社会から大人あつかい
されると、おのれのすること、なすことはすべて正しい、と思
うようになる。


うん、分かりますね。
昔は教師からぶたれるのは当たり前でした。
それが今は体罰だの暴力教師だの言われてしまって、PTAがうるさ
いから、教師が教師の職務をまっとうできない。
子供は良いコト、悪いコトの区別と常識の兼ね合いが甘いのですか
ら、痛みを以って覚えないといけない場面だってあるんです。

女生徒に冗談を言えばセクハラ?
他人を傷つける生徒を叩けば不当暴力?
そんなの間違っています。

もちろん、教師が生徒思いでなくなったことも否めません。
でも、あまりにPTAがうるさすぎるんです。
学校は学校という枠のなかで、社会に通用する人間を教育しなけれ
ばならないところ。
家の延長でも、まして親戚・縁者・友人ではないのです。
今の子供たちは、教師への尊敬の念が希薄に感じざるをえません。
日本はこのままじゃ危ない。
教育の仕方を徹底的に改正すべきだと思います。

少年犯罪、殺人、強盗、強姦・・・etc。
犯罪者がいるのは常ですが、現状の日本は危険がいっぱい。
修正せねば、隣国の脅威に侵されてしまいますよ。。。

伊庭貞剛 言
いくら訪問しても、先方が留守で会えぬことがある。
わしは留守なほどよいと思う。
四度も五度も留守で、やっと六、七度目に会えたというような
ときは、たいがいの頼みごとは、先方がこころよく承知してく
れる。
こちらの誠意が、会わぬさきから先方に届いているからだ。

誠意。
大事なコトですが、現代では事務的なほうが多いですね。
文書やメールで済ましてしまう。
会って話をする、会って頼みごとをする。
これは人間関係の、しかも依頼主からすれば基本的なこと。

三顧の礼も有名ですね。
劉備が諸葛亮に対し、軍師になってくれと依頼する「三国志演義」の
名場面です。
現実は少し違って、演義で脚色されたようですがw

相手に誠意を伝えるコト。
何よりも大事なコトを、昭和以降の日本人は置いてきてしまったよう
な気がします。
もう一度、清廉なその志を思い出しましょう。
たいがいの壁は、それだけで打破できるものです。

山本有三 言
若いときに、にがい水を飲まなかったやつは、ひだちが悪い
よ。
おれは「苦労」をおれの「先生」だと思っているんだ。
人間「苦労」にしこまれないと、すぐいい気になっちまう。

えぇ、そうですね。
トントン拍子に上へ登った人は、性格も悪く挫折に弱い。
一方、苦労した人は、人への思いやりはもちろん、挫折にも強い。
大人になればなるほど、その差は大きく開いていきます。

わたしも病気をして、患者さんの苦労を考えるようになりました。
辛いんだろうな、苦しいんだろうな、可哀想だな。
こう思ってくれる誰かがいる、それだけでも、人は救われます。

苦労は、人への優しさを育てる種。
苦労は、自分を強くしてくれる種。
苦労しているからと、悲観しなくても良いように思います。

武田晴信 言
負けることのない戦に負け、亡ぶことのない家が亡ぶのを、
人はみな天命と言っている。
自分は天命とは思わず、みなそのやり方が悪いためである
と思う。
つねづねやり方をよくしておれば、負けることはあるまい。

かの武田信玄の言葉です。
やるだけやってダメなものはダメ。
確かにそうですが、どこかにひとつ修正点があれば、事態は好転した
かも知れない。
最善は、すべての事柄を想定し、否のつけどころのない行動を行うこ
とと思います。
天命とは、天のせいにしているに他なりません。
すべては自分次第で、どうにか出来る。
そう勇気づけてくれているような気がしてなりません。
ダメなものは、ダメなときだってあるのですから。

むのたけじ 言
人間は生きていく力を全く失ったら自殺しない。
しようにも、できやしない。
自殺を考えるのは、生きる力がまだ十分に残っている証拠で
ある。
失意は発条(バネ)である。

そうですね、ホントに生きる力を失くしたら、自殺する気力さえ失います。
自殺するって、相当のエネルギーと覚悟・決意が必要なものです。
死に逃げたくなっても、死という選択肢しか残されていないわけじゃない
のだから、失意をバネにして立ち直る契機を掴みたい。

一直線の道程など、人生にはないのです。
回り道して、回り道して、さらに紆余曲折。
そしてゴールに辿り着けるかどうかの旅こそが人生です。
何事も諦めてしまうのは良くありませんね。

ブーテルヴェク 言
希望が逃げていっても、勇気を逃がすな。
希望はしばしば我々を欺くが、勇気は力の息吹である。

希望は、期待とも表現できます。
だから、欺かれるというのは、期待はずれなコトが起こったとき。
でもそれは、物事の必然と自分の主観が混在した結果。
主観で期待してしまったから、客観でダメだった必然が苦しく思う。
ただそれだけ。

勇気は余さず持っていれば、行動する活力になります。
活力は原動力とも言い、物事を成すための必要なエネルギー。
勇気を逃さず持ち続ける人が、困難にも打ち勝てるのでしょう。
わたしもきちんと勇気を蓄えておかないと。
しばしば勇気は、息切れしてしまうときがありますからね。

さて。
今回の名言集はいかがでしたでしょうか?
そろそろわたしのネタも尽きてきそうです。(笑)

読書は大好きなので、いっぱい仕込んでいたはずなんですけどね。
結構書いてきたかたかも知れません。
もっともっとたくさんの本を読まないといけません。(苦笑)

皆さんの心に、困難に打ち克つ小さな種が蒔けているといいな。

打ち克てない困難はないはず。
さぁさぁ、頑張っていきまっしょいっ☆♪

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男性と女性の差?

今日は趣向を変えて、男性と女性の間にある「差」を考えていきたいと
思います。
これは、個々の「差」ではなく、大きな枠組みでの「差」で考えます。
個人差というものは、ちょっと度外視して、偏見も含めた意味でご拝読
ください。(笑)

藤本義一 言
なにか一事があるとしよう。
男は大半は黙っているものなのだ。
ところが、女性は、黙っている男を見て、ずるいと考えてしまう。
これは、男は自分を感情を抑えて、自分の論理を組み立てようと
しているからで、女は、自分の感情をそのままぶつけて、問題の
解決を自分で企ろうとする。
そこに大いなる誤解が生じてくるような気がする。

ただ単にずるい人もいますけどね。
確かに女性は、自分から問題解決をする傾向にあるかも知れません。
ここにひとつあるとすれば、問題提起さえ女性からしている場合も。
問題提起しながら、問題解決を企る女性、、、えぇ、多いですね。
答え出てるじゃん・・・・そう思うコトもあるように思います。
加えて、男性の無言・黙認は、時として女性を迷わせます。
黙っている男が格好いい、それは通用しなくなっているように思います
が、どうなのでしょう?
少しばかり、女性が強い時代になり過ぎましたか?

フェヌロン 言
大部分の女は、多くの言葉を費やして、ごくわずかしか語らない。

いたた・・・。(笑)
そこを突かれてしまうと、何も言えませんね。
多くの言葉を並べても、意味を為さない言葉があります。
かたや、たった一言で多くの意味を表す言葉もあります。
言語を習得するということは、ここに尽きるのではないでしょうか。

わたしは、豊潤な言い回しの出来る日本語に誇りを持っています。
と同時に、真に使いこなせていると思えない虚しさもあります。
出来るコトなら、2~3の言葉で100通りもの想いを表現して、それ
を人に伝えたい。
そう願ってしまいます。
一般的に、やはり女性は口下手、説明不足、迂回会話でしょう。
わたしは、そうなりたくありませんが・・・・。

ジェーン・オースチン 言
今まで私が開いた本で、女性の移り気について何かしら書いて
いなかった本は一冊もなかった。
歌も諺もみんな、女の心変わりを語っている。
でもあなたは多分、それはみんな男が書いたものだとおっしゃる
でしょうね。

すごいですね、これ。
まるで男性は「女性が心変わりするもの」と決めつけていて、
まるで女性が「女性が心変わりすると想っているのは男性だ」と言って
いるかのよう。(笑)

女性でも、終身一途に想い続ける人もいます。
男性は、誰もが終身一途に一人を想えるのでしょうか?
どちらもどちら、双方に否があり、双方に理がありますね。
女心は、常に刺激を求めているように思います。
怠慢・平穏・静寂・退屈は、女性の嫌うものなのかナ?
だから移り気する場合もある。
それに比べると、男性は平穏を求め、安息を欲しがる。
ここに互いの理解があれば良いのですが、そうでないときは。。。

サン・テグジュペリ 言
愛するということは、我らが互いに見つめ合うことではなく、
ともに同じ方向を見つめることだ。

そうですね。
恋をしたてのころ、お互いの瞳を見つめていられればいい。
でも、次第に将来が視野に入るようになる。
そのときに、別々のものを見ていては、関係など続きはしません。
男性は「家」を「社会的立場」を「名」を求めゆくもの。
女性は、いつまでたっても「女」として、時に「母」としての自分を求め
てしまうもの。
上手に歩み寄れたとき、そこに本当の関係が成立するのでしょう。
同じ方向・・・これは容易ではないようにも思います。

大宅歩 言
何千年という間、人間の歴史は「愛」ということばを小汚く
使い慣れてきてしまった。

特に男性の言う「愛してる」は、使い古された感が拭えません。
もちろん、純粋に語る「愛してる」もあるのは承知です。
でも、考えてみれば、「愛してる」と言える女性は少なく思います。
ことさら、日本に於いて。

女性はやはり「好き」「大好き」を雰囲気で具現化します。
男性の場合、言葉で以って気持ちを具現化します。
これは海外においても同様のようで、ハクスレー氏は、このように
言っています。
「かつて、LOVE の L は大文字であった。しかし、今は小文字で
love と書かれる」と。

意に反した結婚が往々にまかり通った時代がありました。
それは日本でも、海外でも同じです。
比べ、今は自由恋愛・自由結婚が殆どの時代。
身分を越え、格式を軽んずる重きを以って人を愛した時代にすれば
確かに愛(LOVE)は大文字ではなくなりました(love)。

ただひとつの「愛」は、もちろん大文字なのでしょうが・・・。

ロマンヴィル 言
男が女を愛する第一の条件は、その女が自分の気に入るか
どうかということである。
ところが女にあっては、もうひとつの条件がいる。
それは自分の選択が他人の気に入るかどうかということであ
る。

うーん、分かる気もします。(苦笑)
友達や親兄弟から、「なんであんな人を選んだの?」って言われるよ
うだと、確かにきついかも知れません。
だからと言って、女性は主観でも恋をするから、そればかりとも限り
ませんが。

男性は、周囲の反対を押し切ったり、自分を通すコトができます。
でも女性は、弱いからではなく、自分の耳に入る人の噂に敏感。
だから、少しでも自分がいい気持ちになれる恋が好き。
そんなところでしょうか。
(きっぱり言っておきますが、わたしは違いますよw)

・・・とまぁ、連々と書き綴ってしまいましたが、いかがでしたか?

CHAGE&ASKAの歌に、「Mr.Jの悲劇は岩より重い」という曲が
あります。
初めてのデートから結婚に至るまでを歌った歌なのですが、そこにも
真実があるように思います。

歌詞の一部を抜粋

男は1時間後を
女は1年後を考えてる

ここに至る過程として、いわゆるラブホテルに入るか入らないかって
場面があります。
主人公である「男」は、「彼女」を連れ込みたい。
これが1時間後を考えてる、です。

「彼女」に至っては、すでに「結婚」が視野に入っている。
ここでそこに行くってコトは、結婚するってコトだよ、って考えてる。
これが1年後を考えてる、です。

まぁ、なんと貞淑な女性だと思われるかも知れません。
でもしかし、2番の歌詞では、「男」は「女房」の尻に敷かれてします。
俗に言う「ホタル族」で、精神安定剤を飲まないといけないぐらい。

化粧はせんワ 家事はせんワ BabyはCryCry・・・
戻りたい 戻れない 指輪が食い込む・・・


実際、めちゃくちゃ主人公が悲惨な歌詞です。(笑)
ご興味のある方は、是非お耳にしてみてはいかがでしょうか。
『RED HILL』というアルバムに収録されています。

男性と女性、考え方も生き方も違う、たったふたつの性。
それが地球上で恋して、ひとつになって、生活を営む。
思えば不思議ですね。

今日ご拝読いただいた皆さまは、男性の方が多いかナ。
ご意見、ご感想を寄せていただければ幸いです。(笑)

男女の未来に、男女の関係に、純粋で純潔で純真な幸あれ☆

 

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An Old Saying part2。

取り立てて特殊な1日を過ごしたわけではないので(笑)、前回に引き
続き、名言・格言を書いておきたいと思います。

今回は、ちょっと長めのものを含めて、短めにw

水上勉 言
つけ睫毛をしたりするのは、つまり、自分の眼の欠点を補うもの
らしい。 
ぱっちりとお人形のようにひらいた瞳はすばらしい。
けれど、それも持ち前のものをいうのであって、つけ睫毛をして、
いくら誤魔化してみても、それらしい眼にはなるけれど、本来の
純粋な瞬きはない。
なぜならば、それは心が瞬かねばどうにもならないからである。
ふつうの女性は、目が瞬くのを、瞼が動くと考えているらしいが、
じつはあれは心が動く、そのあらわれである。
化粧は、心を誤魔化して、顔のおもてだけを繕うことで、その心
を出そうと懸命になる行為である。
それだとしたら、危険なつけ睫毛にうつつを抜かさないで、己が
心を純粋にしたほうがよい。
己が心を優しくしたほうがよい。
さすれば、その優しい心が、純粋な心が、たとえ貧しい眼もとで
も、彼女独自の瞬きを与えて、男からみると、可憐で美しいはず
なのである。

一時期からすれば、女性のつけ睫毛はおとなしくなった方なのかな。
でも、目にささったり、目を悪くしたり、眼病のもとになったり、弊害も
多いものです。
化粧も然りで、肌を悪くしたり、シミやそばかすを隠したり。
紫外線を防ぐという面では良いですが、それなりの弊害もあります。
ちゃんと肌を手入れしている男性と、ちゃんと手入れしながらも化粧
をばっちりしている女性とでは、前者のほうがきれいな肌であるわけ
です。
それでも「美しく見せたい」という願望が、女性の女性らしさなのです
が、見かけよりも心の美しさ、内面の輝きを手に入れるほうが大事。
「心をきれいにしましょう」
そういう例えを含んだ名言なのだと思っています。

クリソストムス 言
明日の朝にしようなどと言ってはならぬ。
朝が仕事を仕上げて持ってきてくれるわけではない。

えぇ、まさしくその通り。
延ばし延ばしにする人ほど、その実、何も完遂できないものです。
完遂できる人は、延ばすコトを嫌いますし、完遂してから一息つこう
とするものです。
翌日、翌週、翌月・・・。
時間のあるときにやろうなんて、やらない言い訳に過ぎません。
やれるときにやってしまう。
やらなきゃいけないときは、常に今なんだ。
そういう自覚が、「出来る人間」を生み出すものなのでしょうね。

武者小路実篤 言
青年のくせにぐうたらだったり、怠けることを考えたり、快楽に
溺れて平気でいたりする者は、理想を持たない、現実の敗北
者である。
そんな人に万歳は云えない。

若者だから、に限りませんね。
お役目を果たした人以外、こういう思いでいるべきでしょう。
人からも、自分からも、「万歳」と言える人生。
これが、最終的に「素晴らしい人生」と言えるのではないでしょうか。
もちろん、個人の夢を果たすコトも含み、行動をするコトが肝要です
ね。
怠けるのは、老後や死んだあとでも十分にできます。
むしろそのほうが、時間があるものかも知れません。

レオナルド・ダ・ヴィンチ 言
鉄も使わなければ錆び、水も用いらざれば腐敗し、あるいは
寒冷にあたって凍結する。
人間の知力もまた、これと同じで、絶えず用いざればついに
退化する。

クイズマジックアカデミーをやっていますから、実感でした。
やり始めのころ、本当に知っているのに答えられない/思い出せな
いってコトが頻繁でした。
QMA2から、QMA3になったあたり、自分の脳が活性化しているの
が分かるほど。
文字も一緒ですね。
書けば書くほど上手くなります。
上手に書こうと意識をするコトで、上手になっていきます。
走り書きばかりじゃいけません。
脳は使うほど、字は書くほど、言葉は話すほど、上手く使えるように
なります。
退化・・・・まだ早い言葉ですね。

植村直己 言
出発するとすぐ、帰ることばかり考えるんですよね。
毎日先に進みながら、いかにして先に進むかじゃなくて、いか
にして引き返すかってことばかり考えてるんです。
それが、ある一定のところまで進むと、もう引き返しのきかない
状況までくるわけです。
そこで初めて、先に進むことだけしか考えなくなるんです。

あの有名な冒険家で知られる植村氏でさえ、このように弱気な考え
を持っていたんですね。
誰でも、最初から最後まで諦めず真っ直ぐとはいかないもの。
どこかで一度二度は、「やめたいな」って思うコトもあるでしょう。
そこを乗り越えられるか、乗り越えられないか。
これが分かれ道なのだと思います。
どのように諦心が胸に移ろいでいても、そればかりは踏み倒して、
前を進んでみることです。
そうすれば、戻れないところまで到達し、物事を完遂できてしまって
いるはず。
この繰り返しで、強い意志が鍛錬されて出来上がるのです。

いかがでしたでしょうか?
書いていて、わたし自身も力強く後押しされた気になれました。
読んで頂けた方の、心の糧になってもらえれば幸いです。

最後に、締めくくりとしまして。

管実彦 言
志立たざれば経書も用をなさず
志立てば小説も益をなすなり

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An Old Saying。

心を動かされる名言・格言ってありますでしょうか?
そして、「座右の銘」や、「座右の書」ってありますでしょうか?

この言葉があるからこそ、この本があったからこそ、自分の人生が
大きく変わったという経験を持っている人は、幸せだと思います。

また、その気持ちを忘れないコト、生涯に於いて貫き通すコト。
これが出来た人には、金銭面でも成功よりも大きな「意義」という名
の成功があるように思います。

わたしの座右の書は、新渡戸稲造氏の『武士道』ですが、それ以外
にも、さまざまな名言を吸収するコトで、自らを鼓舞しています。

陣太鼓を打ち鳴らすように、心に響くような言葉。
知っていて、損するコトはないであろう言葉を、数点ご紹介してみま
しょう。
みなさんのお心に響くコトを願うのはもちろんですが、わたし自身に
対しての「鼓舞」の意味も含めて・・・・・。

ジョン・スタインベック 言
人間は、時に誤りを犯しながらも、足を伸ばして前進する。
時にはすべって後ずさりすることがあるかも知れないが、完全に
一歩後退することは決してない。

失敗は成功のもと。
失敗を恐れる人は、先に失敗するコトを考えてしまう傾向にあります。
失敗を考えて動けば、失敗という結果がやって来る。
逆に、成功を考えて、成功を信じて、そのために努力すれば、成功が
ついて来る。
無為に願うばかりでなく、成功のための努力という代価。
これを欠かさないコトが、成功への鍵ですね。
失敗を念頭に考えるのはやめましょう。

北条重時 言(家訓)
何事につけても、良いことがあれば、次にまた悪いことも起こる
もので、その点をよく考えて、悪いことの起こらぬ先に注意する
ことが肝要である。
また、悪いことがあれば、次に良いことも起こるはずだと思って、
心を慰めなさるがよい。
生まれ出ずる喜びがあれば、また必ず死する悲しみあり。
悲喜こもごも、到来するのである。

運の量は決まっていると言う説もあります。
これはどうか分かりませんが、悪いコトのみが生誕から終焉まで続く
コトはないでしょう。
必ず楽しいときもあり、必ず悲しいときもある。
もうひとつ名言たる言葉を引用すれば、

ゲーテ 言
泣いてパンを食べた者でなければ、
人生の本当の味は分からない。

それに似たところで、

ベートーヴェン 言
すぐれた人間の大きな特徴は、不幸で、苦しい境遇にじっと
耐え忍ぶことである。

どちらも、北条重時のものと同じく、「悲嘆するな」という思いが込めら
れているものですね。
途方に暮れても、立ち止まっても、夜は過ぎるし朝は来ます。
それが人間の小ささを思い知らせ、地球という惑星の偉大さを教えて
くれます。
どんなに偉そうな振る舞いをする人でも、時間は操れない。
時間に踊らされている人間は、所詮、地球を汚す権利などない。
そして、時間がくれば明るい空になり、心も少し晴れてゆく。
悲嘆したって始まらないなら、受け入れて「次」を信じてみれば、また
違うものが見えてくるものなのでしょう。

武田信玄 言
為せば成る 為せねばならぬ 
          成る業を 成りぬと捨つる 人のはかなき

有名な句ですが、現代に於いて言われるものは、
「為せば成る 為さねばならぬ 何事も」というものですね。
上杉鷹山が改革のときに言ったとされていますが、それよりも前に
武田信玄が言っていました。
上杉鷹山は、上杉謙信と血の繋がりはないですが、上杉家の当主
を務めました。(江戸中期)
謙信と壮絶な戦をし、かつ友情を深めた稀代の義将の末代らしく、
信玄の言葉を引用するなど、「粋」ですね。

しかしそれよりも重き句、
「成る業を 成りぬと捨つる 人のはかなき」
どうせダメだと諦めたり、尻込みするのも人の特権なのかも知れま
せんが、挑戦できるのも人の特権。
どちらが得かを考えれば、尻込みした臆病さでは成功は勝ち得ま
せんからね。
希望や努力、提案や未来は捨てないで、向かうコトに意義があると
言うコトでしょう。

クーリー 言
明日は何とかなるという馬鹿者。
今日でさえ遅すぎるのだ。
賢者はもう、今日済ましている。

淀川長治 言
人間が生きるということはどういうことかといつも考える。
すると、死ぬことだということに帰着する。
死ぬと分かれば、今日この一日を十分に生きねば損だと思う。

1日1日を精いっぱい、後悔もなく生きるのは難しいですね。
でも。
明日こそ、明日こそ、と、ただ順延に次ぐ順延で、何日経っても動か
ないコトは、何の実も結びません。

明日は何が起こるかわからない。
不意の事故や病気で死ぬかも知れません。
今このときを、悔いなく生きるコトが、過去に執着しない生き方なの
だと思えます。

法句経 
戦場において数千の敵に勝つよりも、
ひとつのおのれに克つ人こそ、最上の戦士である。

他人を傷つけて得る栄誉より、自分に打ち勝って得る栄誉のほうが
はるかに尊いというコトですね。
自分に克つコトは非常に難しい。
必ず言い訳したり、誰かのせいにしたり、また、自分だけ頭角をあら
わしたがってしまったり。
自分を抑え、自分を殺し、自分を他と同調させ、他のために自分の
弱き部分をねじ伏せてこそ、自分に克つとういコト。
深いですが単純で、単純だけど深く果てしなく難しい。
これが出来た人は、揺るぎない心というものを手に入れられるので
しょうか。

山中鹿之介 言
願わくば、我に七難八苦を与え給え。

ここまで言える精神力とは、何事にも屈しない志の成せる業。
もしくは、投げやりという状態でしょう。

何かを成就するために必要なことは、あらゆる不運にも負けない心
と、あらゆる逆境に耐える精神。
お金がほしい、女がほしい、車がほしい、時間がほしい・・・。
貪欲な人間は、あらゆるものを欲しがります。
これが技術と進歩を裏付けているものなのですが、それで現代人の
心は昔の人よりも豊かになったでしょうか?
否、むしろ貧しく乏しくなっています。

七難八苦を願う心。
それに打ち勝てるだけの器量と勇気が持てる人間。
最後に笑えるのは、笑って死ねるのは、こういう人なのでしょうね。
もっとも、山中鹿之介の最後は、美談とはいかなかったようですが、
現代人の誰も彼に会っていませんし、本当のところは分からないの
が真実です。

また、追々ですが名言たるものを載せてみましょう。
わたしの心に、みなさんの心に、小さな灯りが生まれたら、偉大なる
前進です。

明日のために。
未来の自分のために。

砂時計のような人生、1粒1粒にも意義があると信じて・・・・・・。

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SAKURA。

かの本居宣長は、日本人の純真無垢な心情を歌に詠みました。

しきしまの やまと心を 人とはば
朝日ににほふ 山ざくらばな

桜が開花し、前線が北上しています。
お花見に興じる方も多いと思いますが、ここで一度、日本人と桜
の関係を考え直してみるのも、お花見に添えるおつまみには良い
かも知れません。

よくニュースやその他の番組でも言われます。
桜を愛でる習性は、日本人特有のものである、と。
その通り、桜をここまで愛する国民は、世界各国探しても日本人
しか見当たりません。
それほどまでに、国民的象徴である桜。
現在に至る経緯も踏まえ、検討してみたいと思います。

本居宣長が用いた 朝日ににほふ 山ざくらばな という節。
人口栽培された桜という樹木ではなく、野山に自然に咲き誇る桜
を意味しています。
すなわち、この山桜を以って、日本人が抱き続けた「大和魂」を
端に表しているのです。

では、大和魂とは何なのか。
これは武士道に由来する、西洋にはない考え方です。

「礼」「仁」「勇」「義」「忠」「誠」「孝」など、「徳」とされる目は、人の
里の行により得られる、位の高い善行です。
これら「徳」を積むことにより、心の平安はもとより、国の平穏が
もたらされる。
戦に明け暮れ、人を殺してのみ生き抜くことが出来る戦乱の世。
そんな武将たちでさえ、これら「徳」を「美徳」とし、武士道が誕生
してきました。

各々の「徳」については、日を改めて触れるとして、それによって
日本人にもたらされた「大和魂」と桜の関係を追いましょう。

西洋人はバラを愛でます。
あの華麗なる容姿、そして芳香。
優美で華麗なバラは、騎士道の目指す紳士的要目を含んでいま
す。
しかし、西洋の騎士道は、すなわち慈しみと外観的要因の強いも
のであり、ともすれば格好だけになりかねない「危険さ」を孕んで
います。

騎士は家族の安寧のため、そして自らの名誉のために戦います。
それがいけないと言うわけではなく、ある種の宗教観に基づいた
思想に後押しされたもので、こよなく自害を忌み嫌います。

戦場で死する名誉ではなく、天寿をまっとうする往生。
つまり、枝についたまま朽ち果てるバラと同様。
さらに言えば、美しさの裏に棘を隠し持ち、触れるもの、花を摘も
うとする者を傷付ける。
それは生へ執着し、死を恐れる姿にも受け取れます。
艶やかな姿には常に死を恐れ、生きるために触れるものを傷つ
けることも厭わない「裏」があるのです。

では、日本の武士道はどうでしょうか。
幼きころより、主君のため、家名のために死することを「美徳」と
しています。
そのために家族を犠牲にしても、主君と先祖の慰霊のために捧
げる「忠」の心。

幼児が泣いても、その母は叱りつけてきました。
「そのぐらいのことで泣いてどうするのです。
戦で腕や脚を斬り落とされたら泣き叫ぶのですか?
主君に腹を切れと言われたら足掻き騒ぐのですか?
父の名に恥じぬ、もののふにおなりなさい」

現代では、母親も父親も子供を甘やかします。
厳しく叱ることが出来ず、それが子供の依存心を増長させて、
キレやすい子供、社会に対応できない子供を育てます。
少年犯罪は、大部分が本人ではなく、親の責任といえます。

そんな教育を小さい頃から受けてきた武士は、切腹をする際に
於いても、作法を守り通し、詩吟を詠みます。
西洋人にそれができる騎士がどれほどいたでしょうか。
自らの腹部を掻き切り、それでいて正座の姿勢を崩さない。
女性が自害するときも、着物の乱れこそ恥とする概念がありま
した。
つまり、「常に散り果てる覚悟」を養っていたのです。

桜は、風が吹けば散ってしまいます。
バラのように枝についたままではなく、美しく風に乗り、人の目
を楽しませるが如く優雅に。
ほんのひとときの香りを放ちつつ、散り様まさに美しく。
武士道に合致した生き方をする桜だからこそ、現代の日本人
にまで強く影響する「象徴」たる所以でしょう。

武士道は武士だけのものではありません。
日本全国で200万人いたとされる武士道が、庶民に浸透しな
いわけがありません。
「忠」や「義」の心は、農民にまで及んでいたのです。
武士道に合致する桜を愛でる国民性。
これは縁深く、長い歴史で育まれたものと言えるでしょう。

バラは枯れれば終わります。
その種子が、とこしえに子孫を残すとしても、1本のバラは1本
のバラでしかありません。

桜は散っても、樹木は残り、そして来年また花をつけます。
その種子が子孫を残すというよりむしろ、大地に根づいた幹が
とこしえの花をつけていきます。

騎士道は、その代その代により、時代の反映をして変化します。
武士道は、武士であるかぎり不朽のものとして変化しません。

日本人が欧米化していっても、桜を愛でる国民性は消えないと
思います。
この日本という大地に根づいた「桜」という幹が、掘り起こされて
消え失せないかぎり。

心の中の悲哀、鬱憤、それらを包む柔らかい香り。
風に散る花びらの艶やかで儚い美しさ。

源義経も、織田信長も、豊臣秀吉も、徳川家康も、幕末の志士
たちも、こよなく桜を愛でてきました。
彼ら勇猛果敢な武将たちの中にも、しっかりとした武士道があ
り、彼らにとってもまた象徴だったのかも知れません。

桜を見るとき、桜を楽しむとき、桜を愛でるとき。
華と散った武士の生き様を語ってみるのもいいかも知れないで
すね。
それが「歴史を語り継いでゆく」という、現世に生きるわたしたち
の使命であり、単一民族で構築されてきた誇りでもあります。

過去に武士道がなければ。
過去に武士がいなければ。
今の自分の存在は、確実にありませんでした。

桜を単なる樹木としてではなく、春の象徴としてではなく、日本人
の「誇り」として、思い返してみてください。

そんな考え方が、お花見のつまみになったなら幸いです。 

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my soul vol.3。

__01_4
今日も前回の続きです。
あまり家から出ていないので、書くコトがなくって・・・。(笑)
今回は白鞘の居合刀を横目に、刀剣の実を書きたいと思います。
興味のある方は、読んで見てください。
知らない方でも分かるように書いてありますので。。。__02_4

それでは、今日は刀の用語について。
現代にも通じる言葉もありますので、知識として役立つかも???
時代劇を観る上で、出てくる言葉もありますね。
時代小説においては、数多く出てくる用語だったりします。__03_1

・業物、良業物、大業物、最上大業物

折れず、曲がらず、切れるという三大要素が日本刀。
姿形が美しくとも、この三大要素を備えていなければ意味がなく、
それを備えた実用刀こそが「素晴らしい刀」となります。
そこで、刀を試し斬りにかけ、切れ味の鋭いものを業物と称して
区別しました。__04_1
とくに30~50代の骨組みの硬い死体を用いて、胴または胸の
部分を切断し、その「落ち口速く良く切れた」ものを「最上大業物」
と呼びました。
最上大業物の代表格は長曾禰虎徹です。
彼は悲運な刀匠ではありますが、後世に於いて評価の高かった
コトで名を残せた人物です。
業物までは刀剣商で見るコトも出来ますが、良業物以上は滅多に
お目にかかれませんね。__06

・竹光

削った竹を刀身に見せかけて作った、形ばかりの刀です。
国光、吉光、兼光など、名だたる刀匠に「光」の字が多かったコト
から、それをもじって「竹光」と呼ぶようになりました。
時代小説では、貧乏浪人が刀を売り払い、竹光を差した・・という
話がありますが、魂である刀の代わりに竹光を差すなど考えられ
ない話です。
それはフィクションとして受け止めていたほうが良いですね。__07

・棟打ち

刃にかけるまでもない相手を、刀の棟で打ち据えること。
現代では峰打ちというほうが圧倒的に多いですね。
「暴れん坊将軍」でも良く出てきますが、現実にあったかは疑問と
される攻撃方法です。
『甲陽軍艦』では、上杉謙信が武田信玄・北条氏康の子について、
「義信・氏政は、謙信の棟打ちの一打ちにも足らぬ」と豪語してい
た、とあります。__09

・鍔鳴り

刀を鞘に収めると、チャリンと鍔鳴りの音がした・・・など。
これはありえないシチュエーションですね。
鍔鳴りがするというコトは、目釘がゆるみ、柄・切羽・鍔に隙間が
生まれたときに起きる現象です。
鍔鳴りがする刀は、刀身が柄から抜け出す間際の危険な状態で、
それで戦うなど考えられません。
時代劇、アニメ、漫画で「チャリン」という音は、効果音の一種とし
ては良いですが、非常に現実味に欠けます。
リアリティを求めるならば、鍔鳴りは避けたほうが良いでしょう。__08

・切羽

右の写真をご覧ください。
柄と刀身の間に、黒い部分がありますね。
ここは本来、鍔がある部分です。(白鞘なのでないですが)
この箇所に、つばを挟んで「切羽」と呼ばれる鉄の板を配置します。
鍔を支えるナットのようなものだとお考えください。
現代でも使用する「切羽詰まる」は、この切羽が機能しなくなって、
刀が使用できない状況下から生まれた言葉です。__10

・血振るい

時代劇で、人を斬ったあと、ブンと刀を振って血を振り飛ばし納刀。
格好の良い場面ではありますが、実際にはありえません。
いくら刀を振っても、刀身についた血は振り払いきれるものではなく、
その残った血は、納刀後に鞘の中で固まり、抜刀できなくなります。
懐紙できちんと拭い、そのあとで鞘に収める。
これが本来の納刀法です。
時代劇で見かける光景は、脚色と格好の良さを求めたものですね。__11

・胴田貫(胴太貫・同田貫)

居合刀で最も人気のあるものが「胴田貫(同田貫)」と呼ばれるもの
です。
死体を田の畦に乗せて胴を切ったところ、田圃まで貫いたというの
で、こう呼ばれます。
この刀剣の作風は、豪壮無比かつ実戦向きの豪刀。
重く、太く、圧し斬るコトさえ可能なほどの戦闘力を持っていました。__12

・鯉口を切る

刀を抜く用意をすることで、鞘の口が鯉の口に似ているコトから
「鯉口」の名がつきました。
鞘の上部を握った左手の親指で鍔を押し、抜刀する構えの意です。
これには3通りの方法があります。
1.外切り
  敵に切るぞ、という姿勢を見せるため、親指を鍔の外側にかけて
  グイと切る方法。
2.内切り
  敵にさとられぬように、親指で鍔の内側をそっと押して切る方法。
3.控え切り
  内切りを親指で行いながら、食指で鍔を押さえる方法。
  人込みの中で用いる鯉口の切り方です。

日本刀は、長い刃物なので危険という観念が根強いですね。
ただ、実際に人を傷つけようとすると、訓練の必要な刀剣よりも、包丁や
ナイフのほうが早い上に楽です。
安易に片手で扱えるほど軽くなく、刃筋がぶれると斬るコトなど出来ませ
ん。
素人が持ったとて、人を斬れるわけではないのです。
訓練を積み、刃筋がぶれなくなった上、室内などの天井・鴨居・その他の
遮蔽物のない環境下でしか振るうコトは出来ません。
任侠映画や時代劇ほど安易に人を殺められる武器ではないというコトで
すね。

鉄で出来た刀が、1000年以上経っても光り輝き残っている。
これは人を殺める武器というより、むしろ魂として、大事に大事に扱って
きたから為せる業でしょう。
現代の日本では、危険物ではあるものの、「観賞用美術刀剣」という扱い
をされています。
危険なものと認識せず、美しいものを愛でる気持ちで日本刀を鑑賞して
頂けたら幸いです。

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my soul vol.2。

_01_16
前日の続きです。
今日は、日本刀の検証を兼ねて書きたいと思います。
ちなみに右にご紹介している写真は、へし斬り長谷部の居合刀
です。
美しい乱刃模様とともに読んで頂ければ、と思います。_02_14

まず、日本刀がなぜ切れるのか。
それは、刀匠が目指した目標によるところが大きいですね。
『折れず、曲がらず、鋭利で、刃こぼれのしないもの』
これは非常に難しい問題です。_03_11

折れない刀を作るのには、粘り強い鉄が必要です。
そうすると、曲がり易い刀が出来上がってしまいます。
曲がらない刀を作るのには、硬い鉄が必要です。
そうすると、折れやすい刀が出来上がってしまいます。
この両面を併せ持つとなると、以下の製法が必須となります。_04_10

たたら製法で鉄塊にした「玉鋼」。
そのなかに含まれる不純物を、1200~1300度で熱し、大槌で
叩き、打ち伸ばし、折り返し、打ち伸ばし・・・という折り返し鍛錬を
行い、不純物をたたき出して鉄の分布を均一にします。_05_5

美濃伝・四方詰という方法。
中心に柔らかい鉄、刃と棟の部分には硬い鉄、両側面の部分に
やや硬い鉄を使います。
これにより、鋭い刃をつけることのできる硬さと、簡単に折れない
粘りのある刀身を作ることができます。_06_4

反りも重要な要素です。
刀身が真っ直ぐだと、斜めに刃を当てて斬りつけても、斬っている
うちに斜面が斜面でなく、真っ直ぐに対象物に当たることになり、
刃物本来の切れ味を保てなくなります。
垂直に当たった刃では、切れ味が極端に落ちてしまいます。
力学の原理がなかった時代にも、これは実践として考えられたよう
で、結果、反りという考え方に行き着きました。
反りがあることで、最後まで対象物に斜めに接する。
最後の最後まで刃物自体の切れ味を発揮できるという寸法です。_07_3

そして刃角の問題。
道具として使用に耐える強度を保つため、刃角には限界が存在し
ます。
刺身包丁の刃角は18~20度。
刃として、これは限界値なのだそうです。
出刃包丁は刃角25~35度、薪割りに使うナタで35度前後。

もっとも切れ味の鋭い医療用のメスは30度~35度。
カミソリもほぼ同値です。
それに対し日本刀は、30度~38度。
理想的な刃角に反りが加わり、最大の切れ味を発揮するのです。_08_2

日本刀の種類は、大きく簡単に分けて6種類。
・剣
・太刀
・打刀
・脇差_09_1
・短刀
・薙刀

「剣」とは、古事記の時代頃の、直刀に両刃のついたもの。
叩き切る感の強い武器で、時に差し貫く使用方法をします。_10_2
「貫き」が転訛して「つるぎ」となったという説もあります。

「太刀」とは、平安~鎌倉初期に多く見られたもの。
刃を下に向けて、金具や紐で左腰に佩くようにします。
相手を断ち切ることから、「太刀」と呼ばれたという説があります。_11_4

「打刀」とは、時代劇でもおなじみの、いわゆる日本刀です。
刃を上にして、腰に「佩く」のではなく「差す」というスタイルですね。
抜いて瞬時に敵を一打ちにする、ここから「打刀」と呼ばれています。

「脇差」とは、一尺八寸(55cm)以下の刀です。
江戸時代においても、旅行や火事などの場合、町人の帯刀も認められ_12_1
ていました。 脇物、脇指、脇刀、脇副などの名称もあります。

「短刀」とは、鑑定用語で一尺(30.3cm)以下のものを差します。
短か刀、刺刀(さすが)、匕首(あいくち)、首掻き刀とも言われます。
衣服の下に隠し持つものは、懐刀や懐剣と呼びます。

「薙刀」とは、平安末期~室町時代に多く使用された武具です。
長い柄で刀の幅が広く、切っ先部分を大きく反らせた特徴的なもの。
薙ぎ払うのが主目的で、打ち下ろす手はありません。

ほかに種類としては、小太刀や長巻、斬馬刀などもありますが、分類と
しては微妙です。

武士の大小2本差しが主流になったのは江戸時代から。
それまでは大小小や大大小などの3本差しも珍しくありませんでした。
刀の種類を知ると、時代劇も少し見方が変わります。
覚えておくと、楽しいものですよ。

次回は、刀の用語を中心にまとめていきたいと思います。
(まだ続きます・・・・ネタ的に熱くなってしまうものでw)

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my soul vol.1。

_01_17
脳脊髄液減少症になる以前、わたしは居合に精を注いでいまし
た。
幼いころから病弱だったわたしは、それを克服するという意味と
護身術という意味で、格闘技をけっこう学んできました。
_02_15
小学生のころ、少林寺拳法。
中学生のころ、部活とは別にクラブで空手。
高校生のころ、柔道という感じです。
軽量なので大成はしませんでしたが。(笑)_03_12

最終的に行き着き、いちばん長く続いているのが居合です。
今できないのが悔しいかぎりですが、女流剣士を目指しています。
横に並んでいるのは、わたしのいちばんの愛刀ですね。
肥後拵・直刃の5万円ぐらいの居合刀です。_04_11

居合刀は全部で3本持っていて、それぞれ特徴深い一振りです。
まずは上に述べた肥後拵。
そして他に、長谷部国重のへし斬り長谷部、白鞘の正宗。
この二振りは乱刃の居合刀です。_05_6

肥後拵は上質過ぎて大事にしていますので、へし斬り長谷部が
いちばん気軽に、もっとも使用しているものと言えるでしょう。
今日ご紹介しているのは、肥後拵の写真のみです。
長いので、写真に収めるのが難しいですね。(笑)_06_5

別にそれを凶器にするとか、強くなりたいとかっていう気持ちは
ありません。
でも、女流剣士って格好いいって思いませんか?w
『るろうに剣心』の神谷薫の影響も大幅に受けていますケド。(笑)_07_4

今やると酷い頭痛と吐き気が襲うので、本当に残念ですね。
素振りとかだけでも、けっこうなカロリー消費になるし、スタイル
のバランスが取れるので良いのですが。
男性の方にもお薦めですよ。_08_3
腹筋を使うので、おなかが出るコトなんてありませんし。
もちろん、武士としての魂も養えるので、男性としての株もUP♪
暴力的な方でなければ、良いコト尽くしですね☆

日本橋とかに行くと、刃物は厄払いという風潮がありますね。_09_2
江戸に生きる刃への思いが、今も根付いているのだと思います。
それにはわたしも共感。
鉄を鍛えた、研ぎ澄まされた冷たい刃には、厄や魔を払う力が
あるように思うのです。

そういう意味合いもあり、本物の刃物も所持しています。_10_3
短刀・・とまではいかないものですが、佐治武士さんの作「侍Ⅲ」
という作品です。
安来白紙鋼で出来た、伝統工芸師の逸品です。

外に持って出たりはしませんよ。(笑)_11_5
ただ、手入れして大事に大事にしています。
それで厄が払えているかは微妙ですけど、厄を払って現状なの
かも知れませんね。
前向きに考えれば、そういうコトになるでしょうか。

この一振りをしまっている袋は、自作のものです。_12_2
1針1針、心を込めて縫いました。
居合刀を入れている袋も自分で縫って作っています。
ここで手を抜いては、魂が宿らない気がして・・・。

日本女性らしく生きていきたいと、態度や言葉遣い、心根には_13_3
気を配ってきました。
その結果、行き着いた居合の道。
病気が完治して、再び出来るようになるのはいつの日か。

さて・・・。


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